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沛県の豪族で飾り気がなく直言を好む人物であった。漢の高祖[[劉邦]]も大成前は王陵を兄として仕えていたことがあった。
劉邦が挙兵し[[咸陽]]を落としたころ、王陵は数千の兵を集めて[[南陽]]に割拠し、劉邦に従おうとはしなかった。劉邦が[[項籍|項羽]]と戦うようになると、王陵は漢に属するようになった。項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王(劉邦)に従うように。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を煮た。
蕭何の後任候補として曹参らと共に挙げられたがその際に劉邦は「馬鹿正直」と評している。
[[恵帝 (漢)|恵帝]]6年、[[相国]][[曹参]]の死を受けて王陵が右[[丞相]]、[[陳平]]が左丞相となった。
恵帝の死後、[[呂后]]は自分の一族呂氏を王にしようとした。王陵にそのことを尋ねたところ、「高祖は『劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て』と白馬を生贄にして盟を行いました。呂氏を王とするのはこの盟に背くものです」と堂々と答えた
呂后は王陵を疎んじ、呂后元年([[紀元前187年]])に王陵を[[太傅]]に祭り上げて宰相の実権を奪った。王陵は怒り、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、朝廷にでることもなくなった。
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