「アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: ro:Álvar Núñez Cabeza de Vaca
m編集の要約なし
6行目:
[[パンフィロ・デ・ナルバエス|ナルバエス遠征隊]]の出納官として、つまり一等航海士であったカベサ・デ・バカ、そして他の80名は、600人の遠征隊の唯一の生存者であった。4名は、メキシコ湾岸の北方の様々なネイティブアメリカン部族の奴隷となったが、後に脱走し最終的にはメキシコシティに到着した。
 
ほとんどこの小集団で旅をしながら、カベサ・デ・バカは現在の[[アメリカ合衆国]]の[[テキサス州]]、[[ニューメキシコ州]]、[[アリゾナ州]]を、[[ルイジアナ州]]の海岸から[[メキシコ]]の[[シナロア州]]まで、絶望的な貧困と時には奴隷のような条件で生きながらえながら、おおよそ6年以上の月日をかけて、徒歩で探険した。旅の間、彼は先住民たちへの親愛の情を増した。先住民の間では、彼は奴隷として生き、部族から部族へと手渡された。彼は最終的には交易者となり、奴隷の状態からの自由を許され、部族の間を旅することができた。結局、ニュースペインの植民地化された領域に戻り、現在の[[クリアカン]]付近で仲間のスペイン人の集団と出会い、彼はメキシコシティに行って[[1537年]]ヨーロッパに帰還した。カベサ・デ・バカは皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]のために自分の体験について書いた。それは後の1542年に「La Relación(報告)」という書名で出版された。カベサ・デ・バカは、フロリダの[[アデランタード|総督]]として[[パンフィロ・デ・ナルバエス]](彼の愚かさによって多くの隊員が死んだ)を継ぐことを望み、そこに戻ってきたが、カール5世はすでに[[エルナンド・デ・ソト]]に次の遠征隊を率いるよう任命していた。カベサ・デ・バカはその2番目の遠征隊と旅をすることを辞退した。地図に載っていない領地についての十分な情報を持った彼の同胞を提供することへのはっきりした嫌気は、デ・ソトの任命に対する彼の嫉妬が理由だろう。
 
その代わりに[[1540年]]、[[ラプラタ川]](現在の[[パラグアイ]]、[[アルゼンチン]]とその周辺地域)の[[アデランタード|総督]]に任命された。北アメリカでそうであったように、彼は飛び抜けて感性豊かで、先住民に対して慈悲の心に富んでいた。彼は[[イグアスの滝]]をその目で見た最初のヨーロッパ人であった。彼に対する政治的陰謀によって、彼は[[アスンシオン]]で逮捕され、1545年頃、鎖につながれてスペインに帰還した。彼は最終的には潔白を証明され、南アメリカの広範囲におよぶレポートを書き、それは彼の初期の「La Relación(報告)」と合わせて、「Comentarios (注釈書)」という名の題名で出版された。
 
{{DEFAULTSORT:かへさてはか あるはるぬにえす}}