「アレクサンデル2世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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{{複数の問題|ソートキー=人1073年没
| 出典の明記 = 2012年4月
| 参照方法 = 2012年4月
| 独自研究 = 2012年4月
| 観点 = 2012-4
}}
{{ infobox 教皇
| 日本語名 = アレクサンデル2世
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[[イタリア]]の[[バッジョ]]出身。[[ルッカ]]で[[司教]]を務めた。前教皇の[[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]が[[神聖ローマ帝国]]と対立したため、皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の生母で[[摂政]]の[[ポワトゥーのアグネス|アグネス]]は[[対立教皇]]として[[ホノリウス2世 (対立教皇)|ホノリウス2世]]を指名した。
 
ニコラウス2世は1061年6月に重病となり死期を悟ると、[[シチリア王国]]や[[ノルマン人]]の支持を得てイタリア人のアレクサンデル2世を次期教皇に指名したが、対立教皇のホノリウス2世は神聖ローマ帝国の後押しを得てイタリアで金をばらまき、かなりの支持を得た。このため、両教皇を支持する軍隊が[[ローマ]]で激突したが、[[ロレーヌ公]][[ゴドフロワ3世 (ロレーヌ公)|ゴドフロワ3世]]が仲介に乗り出し、何とか両教皇の対立を解消している。教会改革のため、前教皇からの側近[[ペトルス・ダミアニ]]とヒルデブランド(後の[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]])を登用した。また、[[ノルマンディー公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]の[[イングランド王国|イングランド]]侵攻を支持、{{要出典範囲|date=2012年4月|[[ノルマン朝]]を開くきっかけを作った([[ノルマン・コンクエスト]])}}
 
しかし神聖ローマ帝国とは対立が続き、これに対抗するために[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]に援助を求めたが失敗した。1073年4月21日に死去。在位は11年半と22日であった。ヒルデブランドが次の教皇に選出、グレゴリウス7世となった。
 
== 参考文献 ==
<!--* 『ローマ教皇歴代誌』([[創元社]])-->
 
{{ローマ教皇|157代:1061年 - 1073年}}