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=== オスマン支配期 ===
モスタルの名称が最初に表れたのはオスマントルコによる1468年から1469年の調査で、ネレトヴァ川河畔にあった村の2つの塔を言及したもので、[[ラグーサ共和国]]議会の文書により[[1474年]]明らかになった。モスタルの地名は実在した市場から左岸に向けて架かっていた木製の橋を守る「橋の番人」を意味するモスタリ(mostari)から来ているとされている。[[オスマン帝国]]がモスタルを支配し始めたのは1468年頃とされ、35人のオスマン兵が滞在し土地は分割され住民は[[農奴]]にされた。モスタルは[[オスマン帝国]]の支配下に入ると<ref name="Mujezinović, 1998, p. 144"/> 居住地の[[都市化]]が始まるが、最初はカディルク([[カーディー]])と呼ばれる法・行政管区の中心として整備された。この時以来、モスタルは鉱物資源が豊富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレトヴァ川右岸の居住地の広がりをみせた。<ref name="whc.unesco.org"/>[[東洋|オリエンタル]]支配については記されていないが、町は市場である[[バザール|チャルシア]](čaršija)や手工業、商業中心地とマハラ([[近隣住区]])や住宅地区の2つの異なった地区に組織された。1468年、モスタルは[[トルコ語]]で橋のそばの要塞を意味するケプルヒサール(Köprühisar)の名を得ており、当時中心部には15軒の住居があった。<ref>Institute for Regional Planning, Mostar, 1982, p.&nbsp;21</ref>[[16世紀]]、ネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァサンジャクの首府となり、[[ヘルツェゴビナ]]地域の行政の中心都市となった。現在に至るまでモスタルの象徴的な存在である[[スタリ・モスト]]は1566年には木製の橋から石橋に代わり、建築家[[ミマール・スィナン]]の門下生であった[[ミマール・ハイルッディン]]により造られオスマン時代の重要な建築物の一つとなっている。スタリ・モストは全長28m、高さ20mを誇り当時直ぐに驚嘆する物となった。著名なオスマンの旅行家[[エヴリヤ・チェレビ]]は17世紀に「橋は一方の崖から他の崖へ延び、空まで舞い上がる虹のようだ・・・。私は[[アッラーフ|アッラー]]の一人の貧しく惨めな従属者に過ぎず、16カ国も巡ったが今までこのような高い橋は見たことがない。橋は空と同じような高さを岩から岩へ架けられている。」と記してる。<ref>http://www.saudiaramcoworld.com/issue/199805/hearts.and.stones.htm</ref>
 
16世紀から17世紀にかけ急速に町は発展し、この間モスタルの人口は10,000人に達した。町は典型的なオスマン帝国の町として通りや近隣が開発された。旧市街は一番古くモスタルを表す橋に次いで最も重要な物で、ネレトヴァ川の両側に広がる。興味深い記録として17世紀から18世紀初期にはモスタルには24のモスクと22のマハラがあった。オスマン様式の町の発展は17世紀後半から18世紀初期にはピークを向かえ、オスマンの支配力も19世紀半ばには衰えていき、これに代わってキリスト教が主要な役割を担うようになってきた。宗教の寛容から町でのキリスト教の宗教施設やコミュニティの建設が受け入れられた。もっとも古い正教の教会は1834年に町の東側の山の斜面に建てられている。その後、カトリックも自らのスペースを確保している。