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[[File:Przeworsk culture.png|thumb|right|200px|古代の東部[[スラヴ人]]文化であるザルヴィンツィ文化(赤)と西部スラヴ人文化であるプシェヴォルスク文化(黄緑)とのおおまかな位置関係]]
[[File:0300 Ukraine Sarmats.png|thumb|right|200px|ザルーヴィンツィ文化の遺跡(緑)]]
 
'''ザルビンツィ文化'''({{lang-uk|Зарубинецька культура}}, {{lang-en|Zarubintsy Culture}})は前3-2世紀ごろから1世紀ごろに[[プシェヴォルスク文化]]の東方、現在の[[ウクライナ]]北部から[[ベラルーシ]]南部にかけてのいわゆる[[ドニエプル川]]上流地方に繁栄した文化。名称は、[[ウクライナ]]の[[チェルカースィ州]][[ザルーヴィネツィ]]村で発見された遺跡にちなむ。南方の[[チェルニャコヴォ文化]]の系統の地方文化が拡大してくる3世紀まで続いた。その基本的な内容はプシェヴォルスク文化と非常に似通っており、プシェヴォルスク文化の東方版ともいえ、その地理的範囲と河川等の名称から[[スラヴ人]]の文化であることが推定されている。[[スキタイ|スキタイ人]]や[[サルマタイ|サルマタイ人]]の[[ステップ]]地帯の文化、さらには[[ネウロイ|ネウロイ人]]の森林地帯の文化(前7世紀-1世紀の[[バルト語派#東バルト語群|東バルト系]]文化と推定される[[ミログラード文化]])の影響が見られる。
 
500ほどの集落や墓地が発掘されている。集落は防御の措置がまったく採られていない開けたものもあれば、丘の上に作られたうえ様々な防御の仕掛けがあるものもある。後者は東方から[[イラン語群|イラン系]][[遊牧民]]のサルマタイ人がやってきて村を荒らすようになった結果、地元の人々が自らの生命や財産を守るために丘の上の小城塞に移り住むようになったと推測される。一つの集落はそれぞれ12-16平方メートル程度の小規模な家々10-15戸ほどから構成されている。
 
初期から大規模な混合農業を中心とした経済で、[[小麦]]、[[大麦]]、[[ライ麦]]、[[雑穀]]一般、[[エンドウ豆]]、[[レンズ豆]]、[[豆|さや豆]]一般、[[麻]]、[[亜麻]]などを栽培していた。周囲の自然には豊かな[[動物相]]が見られ、人々は農業の他に盛んに[[狩猟]]をし、獲物の皮を交易品としてすぐ南方の[[黒海]]沿岸の都市群で売っていたようである。この経済構造はザルヴィンツィ文化の前の[[チェルノレス文化]]時代からこの同じ地域一帯に見られている。[[火葬]]の習慣があり、初期は地面に掘った穴に直接遺灰を埋めていたようであるが、のちに[[骨壺]]を用いることが一般化した。
 
== 参考文献 ==