「禎子内親王」の版間の差分

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長元2年(1030年)[[良子内親王]]を、同5年(1032年)[[娟子内親王]]を出産したのち、同7年(1034年)[[後三条天皇|尊仁親王]]を出産した。
 
長元9年、夫の[[皇太子]]敦良が[[即位]]([[後朱雀天皇]])。同10年2月(1037年)、[[中宮]]に冊立されるが、3月[[藤原げん子|嫄子]]([[藤原頼通]]養女)の立后で[[皇后|皇后宮]]に転じる。このころから、禎子と[[摂家|摂関家]]の関係は急速に悪化していったらしい。頼通や[[藤原教通|教通]]らが次々と娘たちを入内させる一方で、皇后でありながら禎子はほとんど宮中入りすらままならなかった。そんな禎子を陰で支えたのは頼通・教通らの異母弟[[藤原能信|能信]]であった。『[[今鏡]]』の伝えるところによれば、[[中宮職|中宮大夫]]でもあった彼の働きで、禎子所生の[[後三条天皇|尊仁親王]]は異母兄[[後冷泉天皇]]の[[皇太子|皇太弟]]になることができたという。
 
[[寛徳]]2年(1045年)[[後朱雀天皇]]が[[崩御]]。[[後冷泉天皇]]が[[即位]]し、尊仁が[[立太子]]する。同年7月、禎子は[[出家]]する。[[永承]]6年(1051年)[[皇太后]]となる。[[治暦]]4年(1068年)[[後冷泉天皇]]の[[崩御]]により、尊仁親王が[[即位]]([[後三条天皇]])。後冷泉の中宮[[章子内親王|章子]]が皇太后に、同じく[[女御]][[藤原歓子|歓子]]が皇后に、皇后[[藤原寛子|寛子]]が中宮になったことにともない[[太皇太后]]となる。同5年女院を宣下され'''陽明門院'''(ようめいもんいん)を号す。禎子もいまや[[国母]]として、かつての上東門院彰子にも劣らぬ影響力を持つに至った。そののち後三条天皇は在位 5年余りで[[譲位]]、間もなく崩御したが、陽明門院は忘れ形見の孫娘[[篤子内親王]]を養女として愛育するようになる。
 
しかし後三条天皇の後を継いだ[[白河天皇]]は、父の遺命に背き、異母弟[[輔仁親王]]を[[皇位継承]]から排除して、我が子善仁親王(後の[[堀河天皇]]、陽明門院からみれば曾孫にあたる)への譲位を強行した。これに陽明門院が激怒して一時両者の間が疎遠となる。だが、白河上皇もいつまでも実の祖母と仲違いを続ける訳にはいかず、篤子を堀河天皇に入内・立后させた。これを見届けたのち、寛治8年(1094年)[[天然痘|疱瘡]]で崩御した。享年82。