「悼王 (楚)」の版間の差分

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父は先代の声王。[[紀元前402年]]に声王が賊に[[暗殺]]されたため跡を継いだ。楚は[[平王 (楚)|平王]]の時代に[[呉 (春秋)|呉]]の侵略を受けて衰退していたが[[恵王 (楚)|恵王]]の時代になって北上を開始し、領土を泗水にまで拡大していた。悼王は歴代王の方針を受け継いで領土拡大に積極的だった。
 
この頃、[[魏 (戦国)|魏]]では将軍の呉起が宰相の[[公叔]]と対立し[[武侯 (魏)|武侯]]とも折り合いが悪くなって出奔して楚を頼った。呉起はかつて楚将の[[熊禕]]率いる軍を[[長平]]([[河南省]][[許昌]]東南部)で破った仇敵だったが、悼王は逆にそれで呉起の能力を認めていたため、楚を頼ってから数ヶ月して宰相に任命した。悼王は呉起を厚く信任して全てを任せていた。当時の楚は豪族の連合体制で王の権力も決して強くなかったが、呉起は国政改革を行なって王の中央集権化を目指した。一方で呉起に軍事も任せて楚の北方にある[[陳 (春秋)|陳]]と[[蔡]]を服属させ、三晋(魏・[[趙 (戦国)|趙]]・[[韓 (戦国)|韓]])の連合軍を破り、[[秦]]軍を破って秦将の[[王逸]]を生け捕りにするなどして勢力を大きく拡大した。
 
だが秦との決戦を行なわんとした直前に病に倒れ、前381年に病死した。享年42。死後、悼王の信任を得ていた呉起は改革反対派の貴族ら74家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも20本に及ぶ矢が突き刺さっていたという。