「斯波義銀」の版間の差分

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[[本能寺の変]]の後は、弟の津川義冬が信長の子の[[織田信雄]]の家老となっていたため、その下に義近もいたようで、義冬が信雄に殺害された後、[[小牧・長久手の戦い]]においてはその居城であった[[松ヶ島城]]を守ったが、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に降伏しその臣下となる。
 
秀吉政権の下では足利義昭や[[山名豊国]]とともに[[御伽衆]]となり、当初は外交面で活躍し、東北に分家が点在する斯波家([[大崎氏]]・[[最上氏]]など)の当主として[[伊達政宗]]など東国大名との折衝にあたった。しかし[[小田原の役征伐]]で降参した[[後北条氏]]の[[北条氏直]]の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして秀吉の怒りを買い、失脚した。のちに赦免されたものの、その後は政治的な影響力を回復することはなかった。慶長5年([[1600年]])死去。[[戒名|法名]]は衛陽院殿龐山蘊公大居士。[[万治]]元年([[1658年]])当時は[[妙心寺]]大嶺院に[[位牌]]及び臂鷹の画像があったという。
==逸話==
没落後も足利一門中の第一の家門の当主として知られており、天正年間に[[徳川家康]]が山名禅高(豊国)を供に義銀の屋敷を訪れた際、禅高の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に禅高は家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(禅高)は[[新田氏|新田家]]の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている。
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長男の大蔵は早世した(法名は法性院殿覚山元了大居士)。次男[[津川近利]]は[[徳川家康]]、[[徳川秀忠|秀忠]]に仕え、[[幕臣]]となった。三男[[津川辰珍]]<ref>[[足利義輝]]の遺児を称する[[熊本藩]]客将[[尾池義辰|足利義辰]]の偏諱かどうかは定かではない。なお、細川氏に仕えたのは津川兄弟の方が先だったことが、『肥後細川家侍帳』より分かる。</ref>は[[細川氏]]に仕え、[[豊前国]][[小倉藩]]藩士となり、細川氏の[[熊本藩]]転封に従った。『[[細川忠利|妙解院殿忠利公]]御代於豊前小倉 御侍帳並び軽率末々共に』に、「千二百五十石 源 津川四郎右衛門」と「五百石 源 津川数馬」が見られる。両者の子孫は熊本藩士として続いた。
 
また[[織田長益|織田有楽斎]]の娘を妻とした末子の[[津川近治|津川親行]]は[[豊臣秀頼]]に仕え[[大坂の]]で戦死した。
 
また「武衛系図」には見られないが、[[加賀藩]]士人持組[[津田氏]]の祖で[[大聖寺城]][[城代]]の津田義忠([[津田正勝]])は斯波義近(斯波義銀・津川義近)の子という。津田家は10,000石の禄を食む加賀藩の家老職として代々続き、明治にいたって男爵を授けられ[[華族]]に列した。その際に姓を津田から斯波に復して政府に出仕した。