「由良国繁」の版間の差分

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天正15年、国繁、顕長兄弟はついに佐竹義重に通じ、北条氏直に叛旗を翻したが天正16年には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。
 
天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原の役|小田原攻め征伐]]でも、兄弟は[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から[[常陸国|常陸]]牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。
 
秀吉の死後は[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]に際しては[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、[[下総国|下総]]相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。慶長16年に61歳で死去、貞繁が後を継いだ。貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。