「ニコラ・ド・コンドルセ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{改名提案|ニコラ・ド・コンドルセ|t=ノート:ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン|date=2012年4月}}
'''コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ'''(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, [[1743年]][[9月17日]] - [[1794年]][[3月29日]])は、18世紀[[フランス王国|フランス]]の[[数学者]]、[[哲学者]]、[[政治家]]。[[社会学]]の創設者の一人と目されている。現在の[[エーヌ県]]リブモン生まれ、[[パリ]]近郊のブール・ラ・レーヌ没。
[[ドーフィネ]]のコンドルセ侯爵領の領主であることから、日本では「コンドルセ」と略称されている。
8行目:
== 来歴 ==
[[1758年]]、パリのコレージュ・ド・ナヴァールに入学、数学の才能を認められ、パリのコレージュ・マザランで数学を
テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「[[社会数学]]」という学問プロジェクトに着手することとなる。道徳政治科学とは、当時まだ明確な学問的輪郭を与えられていなかった経済学の源流の一つであり、啓蒙の知識人達に共有されていた問題関心であるばかりか数学者達の関心をも集めていた。そこでコンドルセは、当時数学者[[ピエール=シモン・ラプラス]]らによって理論的な整備の進みつつあった確率論を社会現象に適用し、合理的な意思決定の指針を与えるような社会科学を目指したのである。[[1785年]]に出版された「多数決の確率に対する解析の応用試論」はその一環であった。この著作で彼はルソーの[[直接民主制]]を否定し、唯一の社会的義務とは、一般の「意志」に従うことではなく一般の「理性」に従うことだと論じて[[間接選挙制]]を支持している<ref>
今日定着しているコンドルセのイメージは革命期以降の社会的・政治活動に由来するものが多い。彼は人類愛と資本[[寡占]]への批判をも含む人道的汎人文主義者として[[1788年]]に「黒人友の会」出稿。[[1789年]]のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、[[1790年]]には[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|アベ・シェイエス]]らと1789年協会を設立、[[ヴァレンヌ事件]]以降、[[共和主義者]]の論客となり、[[1781年]]9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となっている。[[1792年]]9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り[[1793年]]2月ジロンド憲法草案を議会に上程。同年のパリコミューンの事件で[[ジロンド派]]は没落。6月14日山岳派憲法が可決。恐怖政治に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、ヴェルネ夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。該著作は、[[オーギュスト・コント]]社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、[[天文学]]と、[[占星学]]、[[純粋数学]]、[[神学]]といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、[[文学]]、[[経済学]]、[[論理学]]、[[社会科学]]といった人間の行動と生活を論理的に究明する[[人文科学]]へ発展してきており、進化の過程において、[[心理学]]と社会科学がようやく生まれてきたその[[精神史]]と社会科学の重要性を論じ、[[オーギュスト・コント]]の理論の礎を「人類の精神の進歩」の最も大切な学的領域として捉えている。その後、令状通りに逮捕され獄中で自殺。51歳だった。
妻は[[アダム・スミス]]や[[トマス・ペイン]]の主要著書を最初に本格的にフランス語翻訳したことで知られる[[ソフィー・ド・グルシー]]。聡明な彼女の存在は女性参政権などコンドルセの[[フェミニズム]]思想に少なからぬ影響を与えたと言われている<ref>
==参考==
|