「張大千」の版間の差分

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'''張大千'''(Zhāng Dàqiān, Chang Ta-Chien, Chang Dai-chien, [[1899年]][[5月10日]] - [[1983年]][[4月2日]])は[[台湾]]、[[近代]]の書画家である。[[書道|書]]、[[篆刻]]、[[詩]]の分野でも活躍した。彼はまた多くの専門家に[[贋作]]者の1人として知られている。
 
出生時の[[名]]は正權、後に爰(yuán)と改めた。字は季爰、大千は[[号]]である。別号は大千居士、下里巴人、斎名大風堂。祖籍は広東省番禺。清朝時代、[[1899年]]([[光緒]]25年己亥、日本では[[明治32年]]にあたる)[[5月10日]](旧暦4月1日)の[[四川省]][[内江]]に生まれ、若い頃より伝統的な中国画の技法の修行を積む。また[[1917年]]、19歳の時に日本の[[京都]]へ留学し、京都芸術専門学校で3年間染色を学んだ。[[1920年代|1920]]~[[1930年代|30年代]]には上海等での個展で認められ、南張(南に張あり)とたたえられた。楊継仁著『張大千伝』(文化芸術出版社、[[1985年]])によれば、[[1931年]]に「唐宋元明中国画展」代表として日本を短期訪問している。[[1933年]]には中央大学芸術専攻教授を務め[[1936年]]に上海中華書局が「張大千画集」を出版、徐悲鴻が序を書き500年に1人の画家と称賛される。
 
[[1940年]]から約2年7ヶ月に渡り[[敦煌市|敦煌]]の[[莫高窟]]に住み込み、[[壁画]]の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。ちなみに敦煌莫高窟における最初の模写を行ったのは、大千であるとされる。[[1942年]]にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まる事になった。この時、共に莫高窟に赴いた書画家の謝稚柳([[1910年]] - [[1997年]])が「敦煌石室記」「敦煌芸術叙録」という記録を残している。
[[国共内戦]]が始まった後の[[1948年]]に[[香港]]に移り、以降は[[ブラジル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など国外に20年以上滞在する。[[1951年]]にアルゼンチンに移り、[[1953年]]にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。[[ピカソ]]に面会しに行ったこともあり、写真が残っている。[[1957年]]、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。[[1959年]]にはかねてからの眼病の治療のため渡米するついでに日本に立ち寄り、在英の中国人作家・凌叔華([[1900年]]~[[1990年]])と画家の王済遠([[1893年]]~[[1972年]])と鎌倉旅行を行っている。[[1974年]]にアメリカ・カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を授与される。[[1978年]]に[[台湾]]に移住。晩年は台北に住み、水墨画に専念、[[1983年]][[4月2日]]午前8時15分、同地で心臓病により没。享年84。没後、遺族が四合院式の住居を台湾の国立故宮博物館に寄贈し、張大千紀念館(台北市士林区至善路二段三百四十二巷二号)として現在一般公開されている。死後の[[1982年]]に中正勲章が与えられた。
 
代表作に「廬山図巻(台北国立故宮博物院所蔵)」「撥墨荷花図」「中郎授女図」「渓橋行船図」、「撥墨荷花図」などがある。
 
[[山水画]]の他に花卉の描写を得意とし、とりわけ蓮の花の画題で独自性を発揮した。彼の画風は優雅で、連綿と続く中国の伝統を強く感じさせる。晩年は[[水墨画]]に専念し、潑墨という技法により絵に動きを出したり色彩のコントラストを強めたりする等、力強く気韻に満ち溢れた作品を生み出した。古典的な中国画の技法と現代の新しい技法を融合させたと評価されている。
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