「形原松平家」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m リダイレクト回避
13行目:
'''形原松平家'''(かたはらまつだいらけ)は、[[松平信光]]の四男[[松平興嗣]](與副とも<ref>『新訂[[寛政重修諸家譜]]』第1巻</ref>)を祖とする[[松平氏]]の庶流。[[三河国]][[宝飯郡]]形原(現在の[[愛知県]][[蒲郡市]]形原町)を領したことから形原松平家と称した。
 
松平宗家の[[徳川家康]]へ従うようになったのは、4代[[松平家広 (形原松平家)|家広]]のときからで、家広とその子・5代[[松平家忠 (形原松平家)|家忠]]は[[長篠の戦い]]、6代[[松平家信|家信]]の[[小牧・長久手の戦い]]や[[小田原の役征伐]]での功績が著しく、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])、家信の頃に[[三河国]][[形原藩]]1万石の[[大名]]となる。その後、元和5年([[1619年]])に[[摂津国]][[高槻藩]]2万石への移封、[[寛永]]12年([[1635年]])に[[下総国]][[佐倉藩]]4万石への移封、寛永17年([[1640年]])に高槻藩に3万6千石での再封、[[慶安]]2年([[1649年]])に[[丹波国]][[篠山藩]]5万石への移封を経た。しかし、11代[[松平信岑|信岑]]が[[享保の大飢饉]]のさなかに重税を課し、領民から反発を受けて[[寛延]]元年([[1748年]])に[[丹波亀山藩]]5万1千石に移封され、そのまま[[幕末]]まで存続した。
 
==系図==