「最上氏」の版間の差分

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最上氏の起源である[[斯波氏]]は、本来[[足利氏|足利宗家]]となるはずだったものの[[北条氏]]の介入によって廃嫡され分家した[[足利家氏]]を祖とする。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[延文]]期(1356 - 60)に[[斯波氏]]傍流の[[奥州管領]][[斯波家兼]]の子、[[斯波兼頼]]が出羽国[[按察使]]として山形に入部し、[[山形城]]を築城し本拠とする。そして、[[室町幕府]]より[[屋形|屋形号]]を許されて'''最上屋形'''と称したことを機に最上氏を称することとなった。なお、山形を領したことから、山形氏と表記されることがある(太田亮『姓氏家系大辞典』)。
 
[[室町時代]]に最初の最盛期を迎えたが、やがて[[天童氏]]など同族内の争いが絶えず起こったために衰退し、[[最上義定]]の頃の{{和暦|[[1514}}年]](永正11年)には[[伊達氏]]と[[長谷堂城]]で戦って敗北し、一時は伊達氏の傘下になる。義定の死後は庶流中野氏から迎えた[[最上義守]]を傀儡として、伊達氏から迎えた義定の[[未亡人]]が権勢をふるった。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入って伊達氏内部に[[天文の乱]]が起こると、最上義守は伊達氏から独立して[[戦国大名]]の道を歩み始める。そして義守の子・[[最上義光]]の代になると、庶族の[[天童氏]]、近隣の[[寒河江氏]]を滅ぼし村山郡を平定。さらには[[庄内地方]]の[[大宝寺氏]]や周辺勢力と対立するようになった。また、最上義光の妹の[[義姫]]は[[伊達輝宗]]へ嫁ぎ、[[伊達政宗]]を生んでいる。
 
{{和暦|[[1590}}年]](天正18年)に覇業を推し進める[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]を機に臣従、本領を安堵され、[[山形城]]を居城にして24万石を領する。{{和暦|[[1591}}年]](天正19年)には[[雄勝郡]]を獲得した。
 
その後、義光は娘[[駒姫]]を[[関白]][[豊臣秀次]]の[[側室]]にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。これ以前より、義光は[[徳川家康]]に接近していたが、さらに[[豊臣氏]]と距離を置き、[[徳川氏]]に接近するようになった。秀吉の死後、[[関ヶ原の戦い]]が起こると、東軍方として上杉氏らと戦った([[長谷堂城の戦い]])。また、北隣の[[小野寺氏]]とも交戦し、[[上浦郡]]([[平鹿郡]]・[[雄勝郡]])一帯を制圧した。
 
関ヶ原の戦いの際は東軍に与し、西軍の雄である[[上杉氏]]の侵攻を退け([[慶長出羽合戦]])戦後、その恩賞で加増され、[[置賜郡]]を除く現在の[[山形県]]全土と[[秋田県]][[由利本荘市]]周辺({{和暦|[[1602}}年]](慶長7年)、[[佐竹氏]]との領土交換により[[雄勝郡]]・[[平鹿郡]]と引き換えた)を手に入れ、計57万石(実高は100万石とも称する)を領する大大名になり、二度目の最盛期を迎える。[[江戸時代]]に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子の[[最上義康|義康]]の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛はやまず、義光の孫[[最上義俊|義俊]]の代には[[最上騒動]]が起こった。
 
義俊は家中の信望を失っており、{{和暦|[[1622}}年]](元和8年)、最上氏は騒動を理由に幕命により[[改易]]されることとなった。宗家の[[斯波武衛家]]が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、[[近江国]]に1万石の[[知行]]を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の[[最上義智|義智]]が幼少であったために5000石に減知され、子孫は[[旗本]][[交代寄合]]として存続した。
 
義光の4男[[山野辺義忠]]は最終的には[[水戸藩]]の[[家老]]に抜擢され、子孫は代々世臣として藩政に重きをなした(テレビ時代劇「[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]」において[[大友柳太朗]]・[[高松英郎]]・[[丹波哲郎]]らが演じた、水戸藩の口うるさい国家老「山野辺兵庫」は、義忠の子の[[山野辺義堅|山野辺兵庫頭義堅]]をモデルにしている)。