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'''日琉同祖論'''(にちりゅうどうそろん)は、[[日本人]]と[[琉球]](沖縄)人は、その起源において民族的には同一であるとする説。日琉同祖論は、歴史的には[[17世紀]]に摂政・[[羽地朝秀]]が
== 概要 ==
=== 羽地朝秀の日琉同祖論 ===
『琉球宗教史の研究』によれば、琉球人が日本人と同族であり、その支族として南下したものであるとの思想を最初に表明したのは羽地朝秀である<ref>『琉球宗教史の研究』1965年 「第4編 聖と俗 第4章 神話」より。</ref>。
羽地朝秀は 源為朝の来琉説は、『[[保元物語]]』の記述を根拠にしていると考えられているが、その起源は羽地朝秀以前にすでに大和(日本)から来琉した僧たちによって唱えられていたと言われている。
また羽地朝秀は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>
こうした羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保([[三司官]])に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、[[万葉集]]などの上代日本語と[[琉球方言]]を比較して、両者に共通点があると説いた<ref>
=== 江戸時代の日本における日琉同祖論 ===
一方日本でも、[[江戸時代]]から日琉同祖論が唱えられていた。[[新井白石]]はその著『南島誌』([[1719年]])の総序において、『[[山海経]]』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している<ref>
また[[藤貞幹]]は
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=鳥越憲三郎|title=琉球宗教史の研究|series= |publisher=[[角川書店]]|year=1965|month=3}}
* {{Cite book|和書|author=鷲尾 順敬 編|title=日本思想闘争史料 第4巻|series=日本思想闘争史料|publisher=名著刊行会|year=1970}}
* {{Cite book|和書|author=[[真境名安興]] 著 [[琉球新報社]] 編|title=真境名安興全集 第一巻|series=真境名安興全集|publisher=琉球新報社|year=1993}}
== 関連項目 ==
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