「ナフタリ・ヘルツ・インベル」の版間の差分

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== 生涯 ==
インベルは、[[1856年]]、[[オーストリア帝国]]東部[[ガリツィア]]にある都市ズウォーチュフ(現在の[[ウクライナ]]・[[ゾーロチウ (リヴィウ州)|ゾーロチウ]])で[[ハシディズム]]系[[ユダヤ人]]の家庭にて生誕した。インベルは、幼少期より伝統的かつタルムードによる教育を受けていた。やがて、彼は10歳の頃よりいささかながら詩を書き始めた。後年、オーストリア帝国によりブコビナが併合されたことを記念する100週年記念祭において発表した詩を称賛され、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]より賞を授与された。その若き日の彼は、たびたび[[ルーマニア]]、[[ハンガリー]]および[[セルビア]]などを精力的に旅行をしていた。
 
1882年において、インベルはパレスチナに赴き、クリスチャンにしてかつ熱狂的な[[シオニスト]]でもあったイギリスのサー・[[ローレンス・オリファント]]の元で秘書を務めた。1886年のエルサレムにおいて、1877年に[[ルーマニア]]の[[モルダヴィア]]地方にある都市[[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]時代においてすでに作詩されていた詩である「''Tikvateinu (Our Hope)''」を含む彼の処女作となる『''Morning Star (ヘブライ語: ברקאי、 Barkai‎)''』と題した詩集を公けに発表した。この詩集の中のひとつである「''Tikvateinu (Our Hope)''」は、やがて[[シオニスト]]により称賛され後に[[イスラエル]]国家における[[国歌]]に採用された。
この詩集の中の一粒であるTikvateinu (Our Hope)は、やがて[[シオニスト]]により称賛され後に[[イスラエル]]国家における[[国歌]]に採用された。
 
1887年にインベルは、ヨーロッパに帰還を果たし、やがて、ロンドンに住み着いた。その彼は、息つく間も無く、再び東方への旅路にでた。行き先はインドの[[ボンベイ]]であった。1892年、彼は、[[アメリカ合衆国]]へ向け事実上最後の旅にでた。インベルは、ひとときではあったが、合衆国において結婚した。彼は、常日頃から[[ヘーベー]]と[[バッカス]]を心より敬愛していた。1900年にニューヨークで、後篇となる詩集を発表した。インベルは、[[ウマル・ハイヤーム]]の作品を[[ヘブライ語]]に、ヘブライ文学を英語に、おのおの翻訳する作業に没頭した。しかし、生活は窮乏そのものであった。
かくて、彼は、1909年に重度のアルコール中毒により孤独のうちに[[ニューヨーク]]にて客死した。後に、その亡骸は、1953年にイスラエルの大地に埋葬された。
 
== 作品 ==
* ''Barkai'' (1886)
* ''New Barkai'' (1900)
* ''Barkai III'' (1904)
* ''In Memoriam for the Slaughtered and Burnt in the Bloody Land, the Land of Russia'' (1905)
* ''Hebrew you'' (1907)
 
== 関連項目 ==