「九州攻め」の版間の差分

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'''九州攻め'''(きゅうしゅうぜめ)は、[[天正]]14年([[1586年]])7月から同15年([[1587年]])4月にかけて行われた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]](1586年9月9日、[[豊臣]]賜姓)による[[九州地方]]への攻戦、秀吉が全国統一の一環としておこなった[[島津氏]]をはじめとする反豊臣勢力に対する平定戦である<ref>[[#日本史辞典|「九州攻め」『角川新版 日本史辞典』(1997)p.274]]</ref><ref name=yamakawa>[[#広辞典|「九州攻め」『日本史広辞典』(1997)p.602]]</ref><ref name=imai>[[#今井|今井「九州攻め」(2005)pp.857-860]]</ref>。[[中国攻め]]・[[四国攻め]]によって中国・四国地方を平定した秀吉が九州地方の制圧に乗り出したことで始まった。「島津攻め」や「九州平定(戦)」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることも多い(詳細は「''[[#呼称と開始時期について]]'' 」参照)。
 
== 呼称と開始時期について ==
{{See also|九州平定#豊臣秀吉の九州平定}}
秀吉の九州戦役(九州攻め)については定まった呼称がなく、[[豊臣政権]]による九州攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」「島津征伐」と呼ばれることもあれば、[[織豊政権]]の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、[[九州地方]]の各[[県]]・[[市町村]]の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)[[九州平定]]」の用語が比較的多く用いられるのに対し、[[1983年]]([[昭和]]58年)刊行の[[吉川弘文館]]『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』では見出し語として「九州征伐」([[今井林太郎]])が使用されている。ただし、[[2005年]]([[平成]]17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』における、今井によるほぼ同一内容の記事の見出し語としては「九州攻め」の語が採用されている<ref name=imai/>。
 
なお、旧日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]([[1889年]]-[[1945年]])編集の[[1903年]]([[明治]]36年)『日本戦史』における呼称は「九州役」であり、これは「九州の戦争」という意味である。ここにおける「役」は、[[賦役]]などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、[[戦争]]のために人民を徴発し、人びとが軍事的に[[徴用]]されるところから「戦」の意で「役」の呼称を用いたものである<ref>[[#小百科|『日本史小百科18 戦乱』(1984)p.302]]</ref>。
 
開始時期について、日本史学者の[[小和田哲男]]は、[[年表]]などではこの戦役が天正15年([[1587年]])に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]、[[島津義久]]の降伏が[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている<ref name=owada07>[[#小和田3|小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132]]</ref>。そして、この段階([[1586年]]段階)における秀吉側の立役者は[[黒田孝高]](如水)であったとしている(後述)<ref name=owada07/>。
 
== 背景 ==
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