「九州攻め」の版間の差分

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== 影響 ==
豊臣秀吉は西国平定を果たし、[[朝鮮]]や[[琉球]]に対し服属を求めた接触を始めることとなった。また、これに前後して目標を東国平定に定め、関東の[[後北条氏|北条氏]]、奥州の[[伊達氏]]へと矛先を移した。
 
佐々成政は肥後の領国化を急ぐあまり、領地を与えられたその翌月に検地を推し進める。そのために[[国人]]衆の反発を招き[[肥後国人一揆]]をもたらした。結果、成政は失策を咎められ切腹、国人らもほとんどが[[処刑]]された。その後は肥後の北半分を[[加藤清正]]、人吉を除く南半分を[[小西行長]]が領することとなった。
 
日向高千穂(宮崎県[[西臼杵郡]][[高千穂町]])の領主である[[三田井氏]]には秀吉から領地を安堵するとも没収するとも沙汰がなく、そのため高橋元種は三田井氏を従わせようと欲して進軍、これを攻め滅ぼした。
 
島津氏では所領を失ったことによる財政問題が生じ、[[伊集院久治]]、上井覚兼ら給地を失った家臣らへの補填がかなわず、[[京都]]市中の[[商人]]や過船からの借銀、[[蔵入地]]の入質および売買によってこれを克服しようと試みている<ref name =aki>[[#秋沢|秋沢(1983)]]</ref>。また、この財政の窮乏は[[公儀]]からも難詰されている<ref name =aki/>。この財政難の克服のため[[検地]]が行われるが、これらの施策に対する不満がのちの[[文禄]]元年(1592年)に島津氏家臣[[梅北国兼]]を首謀者として薩摩北部・中部で起こった[[梅北一揆]]へと繋がったものと考えられる<ref name =aki/>。
 
== 九州攻めと惣無事令 ==
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