「名誉革命」の版間の差分

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Yanajin33 (会話 | 投稿記録)
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== 背景 ==
[[画像:James II & VII.jpg|thumb|right|180px|イングランドスコットランド王ジェームズ2世]]
かねてより[[ライハウス陰謀事件]]や「[[血の審判]]」によって[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と弟の[[ヨーク公]]ジェームズは急速に人気を失いつつあった。さらに[[1685年]]、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、かつて清教徒革命のため[[フランス王国|フランス]]に亡命していた頃に[[カトリック教会|カトリック]]に改宗しており、カトリック教徒を重用してこれに反対していた[[プロテスタント]]の大臣を次々に罷免していた。このため、ほとんどの議員がプロテスタントであり、カトリックの支配に対して敵意を持つイングランド議会と国王との間に対立が深まった。
 
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=== イングランド上陸 ===
[[画像:Prince of Orange engraving by William Miller after Turner R739.jpg|thumb|right|250px|イングランドへ向かうオラニエ公(ウィリアム3世)]]
[[10月30日|30日]]にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌[[10月31日|31日]]に一旦引き返した。[[11月11日]]に再度出港、[[11月15日]](イングランドが使用している[[旧暦]]では[[11月5日 (旧暦)|11月5日]])にイングランド西部の[[デヴォン]]海岸に上陸、[[11月17日|17日]]([[11月7日 (旧暦)|11月7日]])に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。