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'''ヨシヤ'''(''יאשיהו'', Yošiyyáhu, <!--Tiberian Hebrew--> Yôšiyyāhû, ''Josiah''、? - [[紀元前609年]]、在位:[[紀元前640年]]/[[紀元前641年]] - 紀元前609年)は、[[旧約聖書]]「[[列王記]]」などに登場する[[ユダ王国]]の王。
 
==アッシリアからの独立==
8歳で即位したが、16歳頃に神を求め始め、20歳頃から偶像を取り除き始めた<ref>第二[[歴代誌]]34章3節-4節</ref>。長じて[[ユダヤ教]]の改革を通した国家の再建を志し、異教の神々の像を壊すなど、[[申命記改革]]と呼ばれる大規模な改革を行った。このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司[[ヒルキヤ (祭司)|ヒルキヤ]]が改革を助けた。
ヨシア王の治世時に、それまでアッシリアに従属していたユダ王国は、アッシリアの衰退によって一時独立を回復した。独立を回復したヨシア王は、ユダ国家の立て直しの為に、後述する宗教的ナショナリズムを高める政策を行う。
==ユダヤ教改革者としてのヨシア==
8歳で即位したが、16歳頃に神を求め始め、20歳頃から(ユダヤ教徒にとっての)偶像を取り除き始めた<ref>第二[[歴代誌]]34章3節-4節</ref>。長じて[[ユダヤ教]]の改革を通した国家の再建を志し、(ユダヤ教徒にとっての)異教の神々の像を壊すなど、[[申命記改革]]と呼ばれる大規模な改革を行った。このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司[[ヒルキヤ (祭司)|ヒルキヤ]]が改革を助けた。
 
ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシアは、ユダヤ宗教への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、バビロニアやエジプト、ギリシャの神々を押し付けられた、またユダやイスラエルもモアブなどの属国にヤーウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴いユダ王国の独立を回復したが、アッシリアやエジプト、フェニキア人諸国家、バビロニアなどと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。
[[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]・[[ネコ2世]]の侵略を受け、[[メギド]]で戦ったが戦死した([[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]])。
 
しかし、侵略者である強大国への対抗意識から来た面はあるものの、他宗教の像を破壊するなどの行為は、ユダ王国内部の、非ユダヤ教系マイノリティーへの弾圧・迫害であった。
 
===メギドでの敗北と破滅==
ユダヤ教聖典の記述他によると、[[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]・[[ネコ2世]]は、崩壊していたアッシリア王国の残存勢力を支援し、新興国バビロニアを撃破するため、メソポタミアに遠征した。しかしその途中では、必然的にパレスチナに位置するユダ王国の領土を通過する必要があり、実際に領土内に侵入した後、ユダ王であるヨシアに、エジプト軍のユダ領土内での無事な通行を保障するよう要請した。ユダヤ教聖典の記述を信用するのであれば、ネコはこの時使者を送って、少なくとも外形に表れた文言としては、エジプトは(少なくともこの時点では)ユダ王国を攻める為に軍を起こしたのではなく、ユダ王国に敵意はないので中立を保ってほしいと説明したが、ヨシアは一方的に領土内に侵入したエジプトの行為自体を侵略として問題視し、ネコの要請を無視して[[メギド]]で戦いを挑み、圧倒的な兵力差の前に完敗し、戦死した([[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]])。
 
メギドでのヨシアの死後、ヨシアの子ヨアハズが即位したが、ネコ2世によって廃位されている。ヨシアの敗北により、ユダ王国の完全独立は再び失われ、エジプトの従属国となった。
 
==脚注==