「フランス領インドシナ」の版間の差分

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'''仏領インドシナ'''は'''フランス領インドシナ'''ともいい、[[フランス]]の支配下に入った[[インドシナ]]東部地域を意味する。フランスは1887年にコーチシナ(ベトナム南部)を直轄植民地とし、アンナン(ベトナム中部)、トンキン(ベトナム北部)、カンボジア王国を保護国として仏領インドシナを成立させた。その後、1893年には[[ラオス]]を保護国とし、1900年からは中国南部の広州湾租借地を加えた。
 
仏領インドシナ植民地の起源は[[ナポレオン3世]]がフランス宣教師団の保護を目的に1858年遠征軍を派遣したのに始まる。遠征軍はまず[[ベトナム]]中部のツーラン(ダナン)に上陸、ついで[[サイゴン]]に転じ、コーチシナを植民地とし、海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。1882年フランス軍がトンキン地方を占領すると、ベトナムの宗主国・清国の介入を招き、[[清仏戦争]]が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍を叩く一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。1886年フエに[[阮朝]]宮廷を置いたままアンナン、トンキンは保護国とされフランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。
 
1887年海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地およびカンボジア保護国を統括するインドシナ総督が設置され、インドシナ連邦が成立した。インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成されたのは1897年から1902年のかけてインドシナ総督に就任した大物政治家ポール・ドゥメールである。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって[[同化政策]]を推進した。その後、ポール・ボ総督やアルベール・サロー総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす[[協同政策]]に転換する。
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インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱を中心とする鉱山業に集中した。メコンデルタや紅河デルタでは欧州人大地主による米作[[プランテーション]]も広く行われ、石炭や米の輸出が植民地経済を潤した。一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。インフラ建設としてはハノイと昆明を結ぶ雲南鉄道やハノイとサイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道(海運と競合したためさほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進された。
 
1940年に[[パリ]]が陥落し[[ヴィシー政権]]が成立すると日本は雲南鉄道による[[介石]]軍への援助物資の[[中国]]流入を阻止するため北部仏印進駐を求め、1941年には東南アジア侵攻の基地となる南部仏印進駐を求めた。フランスはインドシナにおける主権を日本が認めるのを条件にこれを承認せざるを得なかった。こうしてドクー総督のインドシナ植民地政府は[[太平洋戦争]]の大部分の期間、日本軍と共存することなった。しかし、1944年にパリが解放され、ヴィシー政権が崩壊すると、インドシナ植民地政府の立場は微妙なものとなった。このため、日本軍は1945年3月明号作戦を発動してフランス植民地政府を打倒し、[[フエ]]の宮廷にいた[[バオダイ]]帝を傀儡としてベトナムを独立させた。
 
1945年8月日本が[[ポツダム宣言]]を受諾すると[[中国]]国民党]]軍が北ベトナムに、英軍が南ベトナムに進駐して日本軍降伏を受けた。この間、即時独立を宣言した[[ホーチミン]]の率いるベトナム独立同盟([[ベトミン]])が各地に権力を樹立し、植民地再建のため戻ってきたフランス軍と対立することになる。[[第一次インドシナ戦争]]は[[ディエン・ビエン・フーの戦い]]でのフランス軍の敗北に終わり、フランスは1954年の[[ジュネーブ協定]]でインドシナ諸国の独立を承認し、インドシナ連邦は正式に解体した。なお、広州湾租借地は中国国民党軍の北ベトナムからの撤退を条件に1946年中国に正式に返還されている。