「九州攻め」の版間の差分

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== 略年表 ==
月日は旧暦を示す。
{|class="wikitable" cellspacing="0"
;天正13年(1585年)
!年||月日||できごと
*7月 - 秀吉、[[関白]]任官。「[[藤原氏|藤原]]」に改姓。
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*10月2日 - 秀吉、島津義久ら九州の諸大名に停戦命令を発する。
|天正13年<br/>(1585年)||7月||秀吉、[[関白]]任官。「[[藤原氏|藤原]]」に改姓。
;天正14年(1586年)
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*1月 - 義久、頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明<ref name=ike62/>。
*3||||10 - 2日||秀吉、島津義久ら九州使者鎌田政近諸大名対して占領地の過半停戦命令大友氏に返還する国分案を提示
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*4月5日 - 秀吉、大坂城で大友義鎮(宗麟)の謁見を受ける。
|天正14年<br/>(1586年)|||1月||義久、頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明<ref name=ike62/>。
*4月10日 - 秀吉、毛利輝元に対し、九州出陣のための人員・[[城郭]]・[[兵糧]]などの準備を指示。
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*6月 - 島津軍、筑前・筑後に侵攻。秀吉、諸大名に「逆徒」島津の「征伐」を命令(九州攻撃令)。
||||3月||秀吉、島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示。
*7月6日 - 肥前[[勝尾城の戦い]](佐賀県鳥栖市)
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*7月27日 - 筑前[[岩屋城の戦い]](福岡県太宰府市)
*8||||4 - 5日||秀吉、毛利輝元に出陣大坂城で大友義鎮(宗麟)の謁見命令受ける
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*8月24日 - 筑前[[立花城の戦い]](福岡県糟屋郡新宮町)
||||4月10日||秀吉、毛利輝元に対し、九州出陣のための人員・[[城郭]]・[[兵糧]]などの準備を指示。
*8月25日 - 筑前[[高鳥居城の戦い]](福岡県糟屋郡須恵町)
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*8月26日 - 毛利先鋒隊が豊前で島津方と交戦開始。
||||6月||島津軍、筑前・筑後に侵攻。秀吉、諸大名に「逆徒」島津の「征伐」を命令(九州攻撃令)
*9月9日 - 朝廷、秀吉に「[[豊臣氏|豊臣]]」を賜姓。
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*10月 - 毛利輝元が軍監黒田孝高、一族の小早川隆景・吉川元春をともない九州上陸。豊前小倉城(福岡県北九州市)陥落。
*11||||746 - 豊後||肥前[[栂牟礼勝尾城の戦い]](大分県賀県鳥栖市)
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*12月初旬 - 豊前[[香春岳城の戦い]](福岡県田川郡香春町)
*12||||71227 - 豊後||筑前[[戸次川岩屋城の戦い]](大分福岡県太宰府市)
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*12月13日 - 豊後[[丹生島城の戦い]](大分県臼杵市)
||||8月||秀吉、毛利輝元に出陣を命令。
;天正15年(1587年)
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*1月1日 - 秀吉、石田三成・大谷吉継・長束正家に兵25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分の準備を命令。
||||8月24日||筑前[[立花城の戦い]](福岡県糟屋郡新宮町)
*1月25日 - 秀吉、宇喜多秀家を自身の先陣として出発させる。
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*3月1日 - 秀吉、2万5,000余の大軍を率いて大坂城を出発。
||||8月25日||筑前[[高鳥居城の戦い]](福岡県糟屋郡須恵町)
*3月28日 - 秀吉、九州に上陸。小倉入城。
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*3月15日 - 豊後[[府内城の戦い]](大分県大分市)
||||8月26日||毛利先鋒隊が豊前で島津方と交戦開始。
*3月18日 - 豊後[[梓越の戦い]](大分県佐伯市(旧[[南海部郡]][[宇目町]]))
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*4月1日 - 豊前[[岩石城の戦い]](福岡県田川郡添田町)
||||9月9日||朝廷、秀吉に「[[豊臣氏|豊臣]]」を賜姓。
*4月3日 - [[秋月種実]]、秀吉に降伏。
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*4月17-20日 - 日向[[根白坂の戦い]](宮崎県児湯郡木城町)
||||10月||毛利輝元が軍監黒田孝高、一族の小早川隆景・吉川元春をともない九州上陸。豊前小倉城(福岡県北九州市)陥落。
*4月18日 - [[大村純忠]]、肥前大村の坂口館(長崎県[[大村市]])で死去<ref group="注釈">4月17日、5月18日に没したとの説もある。[[#クロニック|『クロニック戦国全史』(1995)p.502]]</ref>。
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*4月21日 - 根白坂の敗戦を受けて島津義久が豊臣秀長に謝罪。
||||11月4日||豊後[[栂牟礼城の戦い]](大分県佐伯市)
*4月27日 - 秀吉、海路より[[出水市|出水]]に入る。
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*4月28日 - 薩摩[[平佐城の戦い]](鹿児島県薩摩川内市)
||||12月初旬||豊前[[香春岳城の戦い]](福岡県田川郡香春町)
*5月3日 - 秀吉、川内の泰平寺に入る。
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*5月6日 - 島津義久、剃髪し「龍伯」と号する。
||||12月12日||豊後[[戸次川の戦い]](大分市)
*5月8日 - 島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立。秀吉、義久を赦免する。
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*5月23日 - 豊後津久見で大友義鎮(宗麟)死去。
||||12月13日||豊後[[丹生島城の戦い]](大分県臼杵市)
*5月25日 - 秀吉が大隅を島津義弘に、日向の一部を島津久保にあたえる。
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*5月30日 - 秀吉、佐々成政に肥後の大部分をあたえる。
|天正15年<br/>(1587年)||1月1」日||秀吉、石田三成・大谷吉継・長束正家に兵25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分の準備を命令。
*6月5日 - 島津家久の急死。
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*6月7日 - 筑前筥崎(福岡市東区)にて戦後の論功行賞を加味して[[九州国分]]を決定。
*6||||11925 - [[バテレン追放令]]||秀吉、宇喜多秀家自身の先陣として出布すさせる。
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||||3月1日||秀吉、2万5,000余の大軍を率いて大坂城を出発。
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||||3月28日||秀吉、九州に上陸。小倉入城。
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||||3月15日||豊後[[府内城の戦い]](大分県大分市)
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||||3月18日||豊後[[梓越の戦い]](大分県佐伯市(旧[[南海部郡]][[宇目町]]))
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||||4月1日||豊前[[岩石城の戦い]](福岡県田川郡添田町)
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||||4月3日||[[秋月種実]]、秀吉に降伏。
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||||4月17-20日||日向[[根白坂の戦い]](宮崎県児湯郡木城町)
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||||4月18日||[[大村純忠]]、肥前大村の坂口館(長崎県[[大村市]])で死去<ref group="注釈">4月17日、5月18日に没したとの説もある。[[#クロニック|『クロニック戦国全史』(1995)p.502]]</ref>。
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||||4月21日||根白坂の敗戦を受けて島津義久が豊臣秀長に謝罪。
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||||4月27日||秀吉、海路より[[出水市|出水]]に入る。
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||||4月28日||薩摩[[平佐城の戦い]](鹿児島県薩摩川内市)
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||||5月3日||秀吉、川内の泰平寺に入る。
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||||5月6日||島津義久、剃髪し「龍伯」と号する。
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||||5月8日||島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立。秀吉、義久を赦免する。
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||||5月23日||豊後津久見で大友義鎮(宗麟)死去。
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||||5月25日||秀吉が大隅を島津義弘に、日向の一部を島津久保にあたえる。
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||||5月30日||秀吉、佐々成政に肥後の大部分をあたえる。
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||||6月5日||島津家久の急死。
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||||6月7日||秀吉、筑前筥崎(福岡市東区)にて戦後の論功行賞を加味して[[九州国分]]を決定。
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||||6月19日||秀吉、筥崎にて[[バテレン追放令]]を発布する。
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|}
 
== 脚注 ==
10,501

回編集