「九州攻め」の版間の差分

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== 史料 ==
九州攻めを取り扱った記録には、『九州御動座記』があり、筆者は、従来秀吉に近仕し、『[[天正記]]』の作者としても知られる[[大村由己]]と考えられてきたが、最近では由己によるものではなく、筆者不詳とされている<ref name=imai/>。戦役そのものには参加しなかったが、このとき秀吉とともに九州に赴いた細川幽斎の紀行文に『九州道之記』がある<ref name=imai/>。紀行文には他に、[[松永久秀]]・[[織田信長]]・秀吉の[[右筆]]であった[[楠木正虎]](楠長諳)の『九州陣道之記』があるが、正虎は病気のため赤間関より京に引き返しているため九州攻めそのものについては記されておらず、[[狂歌]]や狂句をまじえた道中記として、里程を記した交通資料として価値が高い。
 
『小早川家文書』・『吉川家文書』には秀吉発給の文書はじめ、九州攻め関連の[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]が比較的多く収載されており、島津側史料としては『薩摩旧記雑録』後編がある<ref group="注釈">『薩摩旧記雑録』は、島津義久から島津光久(薩摩藩2代君主)に至る間の文書・古記録を年代順に配列した史料。[[#今井|今井「九州攻め」(2005)p.860]]</ref>。
 
在地武士による記録としては、島津義久の重臣で天正8年([[1580年]])以降は日向国[[宮崎城]](宮崎県宮崎市)城主となった[[上井覚兼]]の日記(『[[上井覚兼日記]]』<ref>[http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E4%BA%95%E8%A6%9A%E5%85%BC%E6%97%A5%E8%A8%98 文化庁「国指定文化財等データベース」『上井覚兼日記』</ref>)がある。覚兼は、主君義久の降伏後、天正17年([[1589年]])に伊集院(鹿児島県[[日置市]])の地で没するが、天正13年の豊後出陣のその日に終わる彼の日記は中世末期の地方武士がみずからの日常を記したものとして貴重な史料となっている<ref>[[#林屋|林屋(1974)pp.366-369]]</ref>。
 
== 略年表 ==
10,501

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