「九州攻め」の版間の差分

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==== 薩摩の戦い ====
[[ファイル:Kennyo02.JPG|right|thumb|130px|[[顕如]]]]
秀吉は[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]に肥後佐敷(熊本県[[葦北郡]][[芦北町]])、26日に肥後水俣(熊本県[[水俣市]])と進み、[[4月27日]]には島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、[[出水城]]([[出水市]])の城主島津忠辰、[[宮之城]](鹿児島県[[薩摩郡]][[さつま町]])の城主[[島津忠長]]らが降伏した。先鋒の[[小西行長]]、[[脇坂安治]]、[[九鬼嘉隆]]らは海路24日出水に、25日には川内(鹿児島県[[薩摩川内市]])に入っていた。
 
秀吉は、薩摩の[[浄土真宗]]勢力を利用するために[[石山本願寺#本願寺|本願寺]](当時は[[摂津国]][[天満]]に本拠を移転)の[[顕如]]をともなっていた。これにより[[獅子島]](鹿児島県[[出水郡]][[長島町]])の一向門徒の協力を得て、島津方の意表を突く迅速さで出水・川内の地に達したのである<ref name=hayashiya375/>。
 
[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]、小西・脇坂・九鬼勢は[[平佐城]](薩摩川内市平佐)に攻撃を仕掛けたが、ここで城主[[桂忠詮]]の反撃にあった(平佐城の戦い)。このとき、平佐城の井穴口を守る[[原田帯刀]]が寄手大将のひとり小出大隅守の弟九鬼八郎を[[]]で射とめ、また、城内の[[女]]たちや[[子ども]]たちも懸命にはたらくなど善戦して、双方、相当数の犠牲者を出した。これが島津方の最後の抵抗となった。
 
=== 講和の成立 ===
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