「九州攻め」の版間の差分

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== 背景 ==
{{main|九州平定#島津氏の九州平定事業}}
[[ファイル:Portrait of Otimo Sourin.jpg|180px|right|thumb|秀吉に助けを求めた[[[[大友義鎮]](]](宗麟)]]
天正年間([[1573年]]-[[1592年]])に入ると、九州地方西部では、それまでの[[大友義鎮]](宗麟)の勢力下にあった[[肥前国]]で[[龍造寺隆信]]の動きが活発化し、肥前一国をほぼ征服、さらに[[筑後国|筑後]]・[[肥後国|肥後]]方面にも勢力を拡大していった。こうして[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後半の九州では、盛強な[[戦国大名]]三者による三つ巴の抗争が展開されるようになったが、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある<ref name=owada06>[[#小和田1|小和田「九州停戦令と九州攻め」(2006)pp.187-214]]</ref>。このなかから、[[薩摩国|薩摩]]の島津氏が台頭し、[[日向国|日向]]の[[伊東氏]]、肥後の[[相良氏]]、[[阿蘇氏]]、肥前の[[肥前有馬氏|有馬氏]]らを下し、天正12年([[1584年]])の[[沖田畷の戦い]]では龍造寺隆信をも敗死させた。さらに、天正13年([[1585年]])には、大友氏の重鎮[[立花道雪]]の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の[[国人]]衆も傘下に収めて[[北九州地方]]への影響力も強めて、[[九州平定]]をほぼ目前にした<ref>[[#熱田|熱田(1992)p.243]]</ref>。[[豊後国|豊後]]の大友宗麟は、島津氏の圧迫を回避するため、当時[[近畿]]、[[四国]]、[[中国地方|中国]]の各地方を平定して天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。
 
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