「九州攻め」の版間の差分

体裁の調整
(体裁の調整)
== 呼称と開始時期について ==
{{See also|九州平定#豊臣秀吉の九州平定}}
[[ファイル:Yoshitaka Kuroda.jpg|right|thumb|130px180px|[[黒田孝高]](如水)]]
秀吉の九州戦役(九州攻め)については定まった呼称がなく、[[豊臣政権]]による九州進攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」「島津征伐」と呼ばれることもあれば、[[織豊政権]]の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、[[九州地方]]の各[[県]]・[[市町村]]の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)[[九州平定]]」の用語が比較的多く用いられるのに対し、[[1983年]]([[昭和]]58年)刊行の[[吉川弘文館]]『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』では見出し語として「九州征伐」([[今井林太郎]])が使用されている。ただし、[[2005年]]([[平成]]17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』における、今井によるほぼ同一内容の記事の見出し語としては「九州攻め」の語が採用されている<ref name=imai/>。
 
[[ファイル:Yoshitaka Kuroda.jpg|right|thumb|130px|[[黒田孝高]](如水)]]
なお、旧日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]([[1889年]]-[[1945年]])編集の[[1903年]]([[明治]]36年)『日本戦史』における呼称は「九州役」であり、これは「九州の戦争」という意味である。ここにおける「役」は、[[賦役]]などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、[[戦争]]のために人民を徴発し、人びとが軍事的に[[徴用]]されるところから「戦」の意で「役」の呼称を用いたものである<ref>[[#小百科|『日本史小百科18 戦乱』(1984)p.302]]</ref>。
 
==== 筑前の戦い ====
{{See also|岩屋城の戦い|立花城の戦い}}
[[ファイル:Takahashi Joun's Tombstone.jpg|300px280px|right|thumb|高橋紹運の墓(右)と岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑(左奥)]]
秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は天正14年6月、筑前への侵攻を開始した。[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]、島津義久みずから[[鹿児島城|鹿児島]]を出発し、[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]には[[肥後国]][[八代城|八代]]([[熊本県]][[八代市]])に到着した<ref name=owada06/>。そして、[[島津忠長]]・[[伊集院忠棟]]が先陣をつとめ、これに、[[島津忠隣]]・[[新納忠元]]・[[北郷忠虎]]・[[川上忠堅]]らがつづくかたちで大友方の[[筑紫広門]]が守る[[肥前国]][[勝尾城]]([[佐賀県]][[鳥栖市]]河内町)を攻めた。[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]、[[筑後川]]をはさんだ[[筑後国]][[高良山]]([[福岡県]][[久留米市]])に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、[[筑紫晴門]]の守る肥前[[鷹取城]](鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した<ref name=owada06/>。
 
==== 豊前・豊後の戦い====
{{see also|戸次川の戦い}}
[[ファイル:Terumoto Mouri.jpg|150px180px|right|thumb|九州攻めの先導役を命じられた[[毛利輝元]]]]
天正14年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]に毛利輝元に対して九州への先導役を命じた秀吉は、[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]には[[吉田郡山城]]([[広島県]][[安芸高田市]])へ使いを送り、輝元に九州出陣を促した。[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]には輝元自身が[[安芸国]]より、月末には[[小早川隆景]]が[[伊予国]]より、[[吉川元春]]が[[出雲国]]よりそれぞれ九州に向けて進発した。
 
朝日姫の見舞いに赴くという名目で母の[[大政所]]を家康のもとに送ることを決意、それにより家康は [[11月27日 (旧暦)|11月27日]]、大坂城にのぼり、関白秀吉の前に進んで居並ぶ諸大名の前で礼を尽くしての謁見を済ませた<ref name=okamoto269/>。これにより、秀吉自身もようやく九州攻めに完全に専念できる態勢が整った<ref name=okamoto269/>。[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]、秀吉は諸国に対し、翌年3月を期してみずから島津征討にあたることを伝え、[[畿内]]および[[北陸道]]・[[東山道]]・[[東海道]]・[[山陰道]]・[[山陽道]]などの約37か国に対し、計20万の兵を大坂に集めるよう命令を発した<ref name=imai/>。また、[[小西隆佐]]・[[建部寿徳]]・[[吉田清右衛門尉]]・[[宮木長次]]の4名に軍勢30万人の1年分の[[兵糧]]米と軍馬2万疋の[[飼料]]の調達を命じ、秀吉家臣[[石田三成]]・[[大谷吉継]]・[[長束正家]]の3名を兵糧奉行に任じて、その出納や輸送にあたらせた<ref name=imai/>。また、小西隆佐には、諸国の船舶を徴発して兵糧10万石分の赤間関への輸送も命じた<ref name=okamoto271>[[#岡本|岡本「島津の降伏」(1969)pp.271-273]]</ref>。
 
[[ファイル:Ohnogawa siratakibashi.jpg|220px230px|left|thumb|現在の戸次川(大分市中半田・中戸次)]]
豊後[[鶴賀城]]([[大分市]]上戸次)は、宗麟の重臣[[利光宗魚]]の居城であり、宗麟の2つの居城、すなわち[[府内]]の[[上原館]](大分市上野丘西)と[[臼杵城|丹生島城]](大分県[[臼杵市]]臼杵)を連繋する要衝であった<ref name=owadahe/>。11月、家久は宗魚の嫡子[[利光統久]]の守る鶴賀城を攻めたが、当時、宗魚は肥前に向けて出陣しており手勢は700ほどにすぎなかったため、統久は講和して父と連絡をとった。報せを受けた宗魚は兵を引き返し、[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]、鶴賀城に戻って家久本陣に夜襲をかけた<ref name=owadahe/>。[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]、島津家久は鶴賀城攻撃を開始し、その日のうちに三の曲輪、二の曲輪を攻め、本曲輪1つをのこすのみとなった。利光の軍はよく守り、府内を守る宗麟嫡男[[大友義統]]に対し、後詰の兵として援軍を差し向けるよう要請した<ref name=owada06/>。しかし、家久は鶴賀城を府内攻めの拠点にすべく昼夜を分かたず攻めつづけ、途中宗魚は流れ矢にあたって戦死した。
 
このとき、府内城には、土佐の長宗我部元親・信親父子、讃岐の[[十河存保]]、そして軍監の立場で讃岐高松城主[[仙石秀久]]らの四国勢およそ六千が詰めていた。四国勢は、持久戦により島津軍を食い止めておくよう指示されていたが、利光宗魚の死によって、府内が家久・義弘双方から挟撃される危険が出てきたため、家久軍を戸次川([[大野川]])で食い止める必要にせまられ、[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]急遽出陣することとなった<ref name=owada06/>。
 
[[ファイル:Hetsugigawa Battle Dead Rest-in-peace Memorial.jpg|120px150px|thumb|[[雪蹊寺]]の長宗我部軍戸次川戦没者供養塔([[高知県]][[高知市]])]]
翌12月12日、[[戸次川の戦い]]がはじまった。家久は鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に本陣をおいたが、その軍勢は1万8,000にふくれあがっていた<ref name=owada06/>。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親の制止も聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川の強行渡河作戦が採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久軍主力が寄せた。この戦いで豊臣方は四国勢6,000のうち2,000を失い、元親の嫡子[[長宗我部信親]]、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した<ref group="注釈">仙石秀久はいったん豊前小倉城に退却して[[淡路国|淡路]][[洲本城]](兵庫県[[洲本市]])に逃亡し、長宗我部元親も沖ノ浜から伊予[[日振島]]に逃れている。元親は戦場では嫡子を失ったことに強い衝撃を受け、単騎島津勢に向かおうとして家臣に制止されている<ref group="注釈">この大敗により仙石秀久は所領を没収され、[[高野山]]で謹慎することとなった。[[#小林|小林(2005)p.392]]</ref>。
 
[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、[[隠居]]した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。丹生島城は、宗麟が[[ポルトガル]]より輸入して「国崩し」と名付けた仏郎機砲(フランキほう、[[石火矢]])の射撃もあり、なんとか持ちこたえた<ref group="注釈">島津家久としては、府内城から大友義統を逐ったことで当初の目的は達したため丹生島城の力攻めは避けたという見解がある。[[#小和田1|小和田(2006)p.199]]</ref>。その後北上する島津軍は[[杵築城]](大分県[[杵築市]])を攻めたが[[木付鎮直]]の激しい抵抗を受け失敗、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。
==== 日向の戦い ====
{{main|根白坂の戦い}}
[[ファイル:Hidenaga Toyotomi.jpg|160px180px|right|thumb|豊後・日向へ進軍した豊臣秀長]]
秀長は3月上旬には小倉に達した。このころ、島津家久が[[松尾城 (豊後国)|豊後松尾城]](大分県[[豊後大野市]]松尾)にうつり、府内城には島津義弘が入っていたが、豊臣方はすぐに豊後を攻めるのではなく、[[高野山]]の僧[[木食応其]]を使者として府内城に送って秀吉との講和を勧めた<ref name=owada06/>。しかし、義弘がこれを拒否したため[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]には豊後・日向国境で小競り合いとなった([[梓越の戦い]])。19日、義弘は[[高城 (新納院)|高城]](宮崎県[[児湯郡]][[木城町]]高城)にうつり、[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]には家久とともに日向の[[都於郡城]](宮崎県[[西都市]]都於郡)に退いて、義久も含めて兄弟3人はこの城で軍議をおこなった<ref name=owada06/>。
 
 
==== 筑前・肥後の戦い ====
[[ファイル:Toyotomi hideyoshi.jpg|160px180px|right|thumb|筑前・肥後を経由して薩摩に進軍した豊臣秀吉]]
秀吉は、赤間関での秀長との軍議のあと、そこから船で九州に渡り、[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]、豊前小倉城に到着した<ref name=imai/>。翌29日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍し、島津方の[[秋月種実]]が本拠とする筑前[[古処山城]](福岡県[[朝倉市]]秋月)・豊前[[巌石城]](福岡県[[田川郡]][[添田町]]枡田)を攻めることとなった。
 
 
==== 薩摩の戦い ====
[[ファイル:Kennyo02.JPG|right|thumb|130px180px|[[顕如]]]]
秀吉は[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]に肥後佐敷(熊本県[[葦北郡]][[芦北町]])、26日に肥後水俣(熊本県[[水俣市]])と進み、[[4月27日]]には島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、[[出水城]]([[出水市]])の城主島津忠辰、[[宮之城]](鹿児島県[[薩摩郡]][[さつま町]])の城主[[島津忠長]]らが降伏した。先鋒の[[小西行長]]、[[脇坂安治]]、[[九鬼嘉隆]]らは海路24日出水に、25日には川内(鹿児島県[[薩摩川内市]])に入っていた。
 
いっぽう4月28日夕刻、平佐城で抵抗していた桂忠詮のもとに当主義久からの書状がとどいた。秀吉勢が[[川内川]]の対岸にもどった後のことであった。書状は、義久はすでに降伏しており、これ以上島津家臣団が戦うことは島津氏の戦後の処遇で不利益をこうむる怖れがあるため降伏するように、という内容であった<ref name=miki>[[#三木|三木「平佐城の戦い」(1996)p.187]]</ref>。山田有信が高城を出たのと同日の4月29日、林忠詮は義久の命にしたがって脇坂安治の陣に[[小姓]]の海老原市十郎、大田兵部左衛門両名を人質として出頭させ、降伏の意思を伝えた<ref name=miki/>。
 
[[ファイル:Taiheiji in Kagoshima.JPG|200px230px|right|thumb|島津義久が秀吉に拝謁した泰平寺(鹿児島県薩摩川内市)]]
秀吉は、林忠詮降伏の報せをうけた翌日の[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]には出水より阿久根(鹿児島県[[阿久根市]])へ移動し、3日には平佐城の川向かいにあたる川内の[[泰平寺 (薩摩川内市)|泰平寺]](薩摩川内市)に[[本陣]]を置いた。忠詮は泰平寺で秀吉に拝謁してその武勇を賞され、名刀宝寿を下賜された<ref name=miki/>。
 
義久が降った後も、飯野城に籠った島津義弘、婿養子忠隣を失った[[島津歳久]]らの抵抗が続いた。[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]、義弘は義久の説得により子息[[島津久保]]を人質として差し出すことを条件に降伏した。
 
[[ファイル:Hakozaki-miya090806a.jpg|200px230px|right|thumb|秀吉が九州国分を発表した筥崎八幡宮(福岡市東区)]]
川内の泰平寺から北に向かった秀吉本隊は[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]、筑前[[箱崎 (福岡市)|筥崎]]([[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]]箱崎)に到着、[[筥崎宮|筥崎八幡宮]]で[[九州国分]]令を発した。
 
10,501

回編集