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[[景龍 (唐)|景龍]]年間([[707年]] - [[710年]])、堅昆はまた唐に方物を献上した。[[中宗 (唐)|中宗]]は「(堅昆が[[李陵]]の後裔であるため)我と同宗(同じ李姓)である。」といい、酒宴を開いた。堅昆は[[玄宗 (唐)|玄宗]](在位:[[712年]] - [[756年]])の時代にも4回朝献した。
 
[[乾元 (唐)|乾元]]年間([[758年]] - [[760年]])、堅昆は回紇([[ウイグル]])部に破られたので、これより中国と交通できなくなった。後に狄語([[テュルク語]])が訛って'''黠戛斯'''(かつかつし)となるが、おそらく[[回鶻]](ウイグル可汗国)によるものだと思われる。若くは黄赤面といい、また訛って'''戛戛斯'''となる。黠戛斯は常に大食(タージ:[[イスラーム帝国]]),[[吐蕃]],葛禄([[カルルク]])と互いに頼り合い、吐蕃の往来者にいたっては回鶻の略奪を畏れたため、必ず葛禄に住み、黠戛斯の護送を待っていた。一方で回鶻は黠戛斯の君長である阿熱(あぜつ:黠戛斯の君主号)に官を授けて'''毘伽頓頡斤'''(ビルゲ・トン・イルキン)とした。
 
===回鶻を滅ぼし可汗国となる===
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===暦===
『[[新唐書]]』回鶻伝下に「歲首年の始め謂いて茂師哀(モス・アイ mös ai:「氷月」の意。)し,いい、三哀(3か月)をもって一季節となし十二の動物をもって紀年とする。も,如歲在、ある年が則ち歳であれば、これを虎年という称する。」とあり、黠戛斯は「十二物紀年」すなわち中国に由来する[[十二支]]を用いた暦を使用していた。
 
===政治体制===
堅昆時代、[[鉄勒]]の[[薛延陀]]部に隷属していたため、延陀が頡利発(イルテベル)1人をもって監国した。堅昆の酋長は3人おり、訖悉輩,居沙波輩,阿米輩<ref>「輩」は王侯,酋長を意味する官称号「bai」にあたる。《『騎馬民族史2』p454注156》</ref>の3酋長で国を共治していた。酋長は俟利発(イルテベル)の称号を帯び、唐によって堅昆都督府が置かれると、堅昆都督の職も担当した。
 
黠戛斯の君主は“阿熱”(あぜつ)<ref>「阿熱」の唐音は「a-net」に近いとみられ、テュルク語の「inäl」の音訳と推定する説がある。13世紀初頭のキルギズ部長の一人にUrūs-inālという名の者があり、このinālと比較するにたる。《『騎馬民族史2』p451注156》</ref>といい、その氏族名も阿熱という。阿熱は青山に牙を置き、周りには垣をし、「密的支」と呼ばれる聯氈を帳とし、它首領は小帳に居る。すべての調兵、諸部の役属者は悉く行う。貂鼠、青鼠を賦とする。官職は宰相(7人),都督(3人),職使(10人),長史(15人),将軍(定員なし),達干(定員なし)の六等がある。
 
[[回鶻|回鶻可汗国]]が衰退すると、黠戛斯の阿熱は可汗(カガン)号を採用し、妻の称号も可敦(カトゥン)とした。
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*呼得国<ref>「烏掲」,「呼偈」とも記され、のちの[[テュルク系民族]][[オグズ]](Oγuz)の祖先とされる。《『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18》</ref>は葱嶺(パミール高原)の北、烏孫の西北、康居の東北に在り。堅昆国は康居の西北に在り。丁令国は康居の北に在り。これら三国は、堅昆が中央で、俱に匈奴の単于庭がある安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里に位置する。<ref>『魏略』西戎伝</ref>
*阿輔水,剣水の間にて契骨と号す<ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>。
*黠戛斯の地は[[伊吾]]の西、[[焉耆]]の北、白山の旁ら<ref>この地を黠戛斯の住地とするのは不正確。黠戛斯の本土はイェニセイ上流域である。《『騎馬民族史2』p449注147》</ref>。[[回鶻]]牙までは橐它で行くこと40日。天徳を出て200里で西受降城に至り、北は300里で鵜泉に至り、鵜泉の西北は回鶻牙まで1500里だが、東西に二道あり、泉の北は東道なり。回鶻牙の北600里には仙娥河([[セレンガ川]])があり、河の東北には雪山があってその地には水泉が多い。青山の東には剣河という川があり、川は悉く東北へ流れ、その国を経て合流し、北の海へ入る。<ref>『新唐書』列傳第一百四十二下  回鶻下</ref>
 
以上のようにバイカル湖の南から[[ジュンガル盆地]]、[[カザフ草原]]にいたる広大な範囲に分布していることがわかる。また、[[ラシード・ウッディーン]]の『[[集史]]』「テュルク・モンゴル諸民族誌」では次のように記されている。
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*『[[旧唐書]]』列伝第一百四十四上 突厥上
*『[[新唐書]]』列伝第一百四十上 突厥上、列伝第一百四十二下 回鶻下
*[[佐口透]]、[[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]、[[護雅夫]]『騎馬民族史2-正史北狄伝』([[平凡社]]、[[1972年]])
*[[コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン]](訳注:[[佐口透]])『モンゴル帝国史1』([[平凡社]]、[[1976年]]、ISBN 4582801102)
*コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史2』(平凡社、[[1994年]]、ISBN 4582801285)