「ロベルト・カンピン」の版間の差分

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美術史家たちは「[[北方ルネサンス]]」の起源がどこなのかを、イタリアルネサンスのそれよりもはるかにわずかな手がかりをもとに熱心に研究してきた。そして長い間ヤン・ファン・エイクこそが、装飾写本絵画をパネル絵画へと革新した最初の画家であると信じられてきた。
 
しかし19世紀の終わりごろには、ファン・エイクも当時活躍していた画家の一人であり、同じようなスタイルで描かれたファン・エイク以外の作品が他にも存在することが明らかになってきた。有名な作品に1428年の日付が入った『'''[[メロードの祭壇画]]'''』があげられる。現在この[[祭壇画#三連祭壇画|三連祭壇画]]は[[メトロポリタン美術館]]別館の[[クロイスターズ]]所蔵で、細部まで注意を払って写実的に描かれている。フレマール大修道院(かつてフレマールに設立されていたといわれたが、このような修道院はフレマールにはなかった)由来と見られる、現在は[[フランクフルト・アム・マイン]]にある、『メロードの祭壇画』とよく似た作風の[[板絵|パネル絵]]が他にも3枚存在している。これらのパネル絵の作者は同一人物であるとされ、その作者が「フレマールの画家」と呼ばれるようになったが、当時その画家が誰であるのかを特定することは出来なかった。
 
20世紀になると「フレマールの画家」は、1406年の記録に[[トゥルネー]]の画家として記載されているロベルト・カンピンではないかと主張する美術史家たちが現れる。この主張は1427年にカンピンの工房に弟子入りした二人の画家、[[ジャック・ダレー]]と[[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]についても言及し、ダレーの詳細な祭壇画の記録は「フレマールの画家」の作品の特徴と酷似しており、さらにファン・デル・ウェイデンの初期の絵画も「フレマールの画家」の作品と酷似している。したがってダレーとファン・デル・ウェイデンの師匠であるロベルト・カンピンこそが「フレマールの画家」ではないかという推測が成り立つとする。しかしフレマールのパネル絵群はファン・デル・ウェイデンがまだ20歳代のころに描いたという可能性もある。美術史家のなかにはプラド美術館所蔵でファン・デル・ウェイデンの描いた有名な『'''[[十字架降架 (ファン・デル・ウェイデンの絵画)|十字架降架]]'''』は 、ファン・デル・ウェイデンではなくカンピンの作品であると考えるものもいる。