「柳条湖事件」の版間の差分

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しかし、「柳條溝」が事件発生地として一躍有名になった一方で、本来の地名は柳条湖であり、分遣隊の存在もあったので、関東軍内や陸軍部内でもすぐに「柳條湖」に訂正された。1932年の[[満州国]]建国後は「五族」にとっても親近感のある「柳条湖」に徐々に改められ、[[1935年]](昭和10年)の参謀本部編『満洲事変史』でも「柳條湖」と表記された<ref name=yamada/>。ただし、その後も、軍部においても「柳條溝」の表記はかなりみられた。満州国では[[1936年]]以降[[新聞]]でも「柳條湖」に修正したが、日本国内ではマスメディアの「柳條湖」への修正は[[1940年]]以降となった<ref name=yamada/>。やがて敗戦のためにこの修正の事実そのものが忘れられ、一方、[[極東国際軍事裁判]]などでは発生段階の「柳條溝事件」が使用されたり、「'''奉天事件'''」「'''奉天事変'''」の名称も正式名称的に用いられるなどしたため、「柳条湖」の地名はしばしば忘却されたのである<ref name=yamada/>。
 
日本近現代史の研究者である[[島田俊彦]]は[[1967年]](昭和42年)、基本[[史料]]の発掘にともなって発生地の本来の地名が「柳条湖」であることを再発見、[[1970年]](昭和45年)には改めてその事実を指摘し、「'''柳条湖事件'''」の呼称を提唱した。しかし、当時は[[唯物史観]]全盛で「[[十五年戦争]]論」(日本陸軍は一貫して[[侵略戦争]]を進めていったとする議論)の立場に立つ研究者が優勢で、[[防衛庁]]の史料なども用いて史実の多様な側面を考究しようという島田の研究は呼称問題をふくめて無視された<ref name=yamada/>。その後、[[1981年]](昭和56年)に中国で公表された[[徐建東]]・[[王維遠]]論文に「柳条湖事件」とあったため、日本では、徐・王の当該研究などを契機より「柳条溝」の誤りが正されて「柳条湖」になったとする見解が流布した<ref name=yamada/><ref group="注釈">山田勝芳は、徐・王をはじめとする中国人研究者も島田の研究を意図的に無視した形跡があることを指摘し、問題視している。[[#山田|山田(2010)pp.6-7]]</ref>。[[山田勝芳]](中国史、東アジア社会制度史)はしかし、それについては島田の研究が先行していることを強調したうえで、事件直後の経緯を考慮すれば「柳条溝事件」も決して単純な「誤り」ではなかった(当初の事件名はやはり「'''柳條溝事件'''」であった)として、「'''柳条湖(溝)事件'''」の表記を提唱している<ref name=yamada/>。
 
今日では、本来の発生地名を冠した「柳条湖事件」が定着している。
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