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== 初代・朝寝房夢羅久 ==
初代'''朝寝房 夢羅久'''([[安永]]6年([[1777年]])(逆算) - [[天保]]2年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]([[1831年]][[3月1日]]))は、落語家。本名は里見晋兵衛。幼名を勝蔵
 
最初は江戸の生まれ、質屋を奉公した後[[義太夫]]の[[富竹宮戸太夫]]の門下で戸志太夫と名乗る。この頃流俗亭玖重(一説には玖蝶)の狂名を持っていた。
 
[[享和]]3年([[1803年]])に初代三笑亭可楽の門下で珍蝶亭夢楽を経て新蝶亭夢楽(一説には亭号はずっと三笑亭)。同じ可楽門下には初代の林家の始祖。怪談噺の元祖と言われる[[林家正蔵#初代|初代林屋正藏]]がいる。[[文化]]56年([[1809年]])[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]に夢羅久と改名し盛大に咄を催した。しかし勝手に改名したことから師匠と不和になり破門され、これを機に亭号を「朝寝房」と変えたと言われる。その後は[[烏亭焉馬]]門下に入って笑語楼夢羅久と名乗った。また文政以降は「朝寝房むらく」の名も見える
 
[[人情噺]]を一番初めに演じた人物であると言われており、師匠可楽を凌ぐ実力の持ち主であったと伝えられる。天保2年没。[[享年]]55。
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2代目'''朝寝坊 むらく'''([[生没年不詳]])は、[[落語家]]。本名は日吉善蔵。
 
13歳の時に[[入船亭扇橋#初代|初代船遊亭扇橋]]の下に入門、芸名は不明。。後に[[烏亭焉馬]]門下で[[立川金馬|初代立川金馬]]を名乗った。談志楼の亭号を使っていた時もあった。文化10年([[1813年]])に大のし楼で盛大に咄を催した。その後初代夢羅久に随身する。天保2年([[1831年]])5月に金馬の名を弟子の立川金山に譲り2代目むらくを襲名。享年などは不明。
 
門下には3代目立川金馬、[[紫檀楼古喜]](紫檀楼古木)、[[立川ぜん馬#4代目まで|立川善馬]]がいる。
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5代目'''朝寝坊 むらく'''([[文政]]12年([[1829年]]) - [[明治]]31年([[1898年]])[[4月26日]])は、落語家。本名は鹿島五兵衛。
 
江戸の生まれ、最初は[[司馬才次郎]]門下に入る。師名才次郎を相続後、名を孫三と変えた後に[[三遊亭圓生 (2代目)|2代目三遊亭圓生]]の門下で[[桃月庵白酒]]と名乗る。[[1868年]]頃に[[月の家圓鏡|月ノ家圓鏡]]から明治一ケタ代に桃栗山人と改名。明治20年代初めに[[三遊亭圓朝|初代三遊亭圓朝]]の門下で圓と名乗った後、明治20年代に5代目むらくを襲名。
 
三題噺を得意とした。圓朝より2年先に死去した古老のひとり。1898年没。享年70。
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素人時代から本名で壮士として政談演説を主催していた。[[1884年]]頃に[[長崎]]で[[三遊亭圓生 (4代目)|4代目三遊亭圓生]]の門下で[[橘家圓喬|三遊亭圓喬]](無断に名乗ったので公認の代数に数えられていない)と名乗っている。その後活動の拠点を[[京都]]に移し、[[1891年]]8月に笑福亭圓寿と改名し人気を博していた。翌年上京して[[三遊派]]に入り、[[1892年]]には本名で[[寄席]]に出演している。
 
その後[[立花家橘之助]]と恋仲になり、[[1893年]]3月に2人で[[名古屋]]へ駆け落ちに走る。ここで2世[[曽呂利新左衛門#二世 曽呂利 新左衛門|2世曽呂利新左衛門]]を出会ったのを機に、[[大阪]]の寄席に出演する様になる。圓寿から[[1896年]]8月には三遊亭圓相となり、後に東京に戻って[[1895年]]1月に[[全亭武生]]と改め、[[1898年]]に6代目むらくを襲名。
 
[[1899年]]、後の[[永井荷風]]はこのむらくの門下に入って夢之助を名乗っていたが、半年後に寄席に出演していたところを父の使用人に見つかったため、家に連れ戻されてしまったという。
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8代目'''朝寝坊 むらく'''([[1882年]][[6月19日]] - [[1931年]][[1月1日]])は、[[落語家]]。本名は籾山藤朔。通称「酔払いむらく」「柳昇むらく」、柳曻時代は「横浜の柳曻」。
 
愛知の生まれ、最初は14歳の時1895年頃に[[柳家小さん (3代目)|3代目柳家小さん]]門下で[[柳家小里ん]]となる。2明治30ほどして代前半に[[春風亭柳枝 (3代目)|3代目春風亭柳枝]]の門下で春風亭枝女好、明治30まもなく代半ばに春風亭千枝(せんし)としたが[[日露戦争]]に従軍していたため「戦死」と音が同じで縁起が悪いので[[1904年]]、[[1905年|5年]]頃に[[春風亭柳昇|初代春風亭柳曻(りゅうしょう)]]とした。除隊後は高座で戦争体験を演じ、これが人気を博した。[[柳家金語楼]]の[[兵隊落語]]はこれをヒントにしたといわれる。
 
[[1907年]]11月には師匠の前名である[[春風亭小柳枝|2代目春風亭小柳枝]]を名乗るも、無断に襲名したため翌年2月に取り上げあげられて柳昇と戻し師匠の所に入られなくなり[[1910年]]頃?[[上方落語|上方]]に移り柳生と名乗ったという。「睦会」が結成された時に周囲から東京に呼び戻されて再び[[1911年]]頃?に再び柳昇で活動し始める。[[1916年]]11月には8代目むらくを襲名し盛大に襲名披露を行った。
 
得意ネタは『[[らくだ (落語)|らくだ]]』『[[替り目]]』『[[胴乱の幸助]]』『[[くやみ]]』など。晩年は耳を患ったため、高座から退いた。1931年、死去。{{没年齢2|1882|6|19|1931|1|1}}。