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|所 = [[成宮明光]]([[1972年]] - 開業)→<br />[[美浦トレーニングセンター|美浦T.C.]](開業 - )
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'''栗田 博憲'''(くりた ひろのり、[[1948年]][[11月4日]] - )は[[日本中央競馬会]] (JRA) [[美浦トレーニングセンター]]所属の[[調教師]]である
 
== 略歴 ==
[[1972年]]に[[中山競馬場]][[競馬学校|白井分場]]の[[成宮明光]]厩舎で[[調教助手]]となる。[[1980年]]に調教師免許を取得し、[[厩舎]]を開業。初出走は同年[[10月25日]][[東京競馬場|東京競馬]]第10競走のタニノネバアーで14着、初勝利は翌[[1981年]][[3月22日]][[中山競馬場|中山競馬]]第4競走のフジノタイヨーで延べ16頭目であった。[[1987年]]の[[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]]をトチノニシキが14番人気の低評価を覆して優勝し、重賞初勝利を挙げた。同年の[[エリザベス女王杯]]では[[タレンティドガール]]が、栗田の提案した正攻法<ref>これは「目標は、スタートから10番手以内に位置すること」の戦法であった([[優駿]] 1987年12月号 エリザベス女王杯記事内インタビューより)。</ref>で[[桜花賞]]・[[優駿牝馬]]の牝馬二冠馬[[マックスビューティ]]を抑えて優勝し、G1競走初勝利を飾った。
 
[[1999年]][[5月16日]]に東京競馬場で施行された緑風ステークス(1600万下条件戦)において、[[シンコウシングラー]]を[[柴田善臣]]騎乗で出走させた。同馬は2着に入線したが、後[[検量]]において1.7kg不足していたために失格となった。これは栗田が同馬に[[鞍]]を装着する際、鞍に付属するを付けずに装着したことが原因で起こり、注意義務を怠ったことで[[制裁]](過怠金)となった。この時の栗田に対する過怠金は最大の50万円と言う極めて重い処分であった。
 
なお騎乗した柴田も同様に注意義務を怠ったことにより制裁となったが、主要因は栗田にあったと判断されたため、柴田に対しては騎乗停止ではなく20万円の過怠金となった。またこの失格裁定は一旦確定の発表が行われた後に覆す形で発表されたため、JRAの対応について[[競馬ファン]]より批判や議論の対象となり、再発防止のため、装鞍前の鞍の検量が制度化された。
 
== 調教師成績 ==