「師岡佑行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
10行目:
[[1962年]]、立命館大学文学部講師。[[1969年]]、[[全共闘]]を支持して同大学を辞職。[[1971年]]、大阪矢田診療所に勤務。
 
近所の[[部落解放同盟]]委員長[[朝田善之助]]の自宅に出入りし、朝田の仕事を手伝い始め、[[1971年]]には『部落解放同盟・教宣シリーズNo3「矢田教育差別事件」とは何か』を執筆。[[1973年]]、部落解放同盟本部機関紙「[[解放新聞]]」主筆となり、[[1975年]]に辞任。[[1977年]]、[[京都部落史研究所]]を設立し所長に就任。[[2000年]]6月、同研究所の閉所に伴って所長を辞任。[[2003年]]には、同研究所の後身である[[京都部落問題研究資料センター]]の所長[[灘本昌久]]の論文「部落解放に反天皇制は無用」に反駁し、論文「反天皇制は部落解放の核心である」を発表。最終的に灘本は同センター所長を辞任に追い込まれた
 
[[2006年]]、[[那覇市]]の自宅アパートのあるビルから転落して死亡。自殺と事故の両面から捜査がおこなわれた。