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== 経歴 ==
[[ボローニャ]]近郊の[[モルダーノ]]の農家に生まれる。1913年に[[ボローニャ大学]]に入学し、[[法学]]を学ぶかたわらジャーナリストとして活動。[[第一次世界大戦]]に従軍したため、卒業したのは戦後の1919年であった。除隊後は[[イモラ]]に転居し、[[弁護士]]を開業した。
 
当初は[[左翼]]として政治活動を始めたが、1914年に第一次世界大戦へのイタリア参戦を主張した[[ベニート・ムッソリーニ]]に同調する。グランディの故郷は左翼が強く、当地の[[ファシズム]]の指導者だったグランディは反対者の激しい攻撃を受けることになった。1920年10月17日、グランディは銃撃を受けて5発の銃弾を浴び、その二日後には事務所が左派民兵により荒らされた。同年12月、週刊誌「L'Assalto(攻撃)」を創刊。同じ頃、ムッソリーニをファシズム運動の指導者と認め、以前は猛烈に反対していた[[ファシスト党]]への改組に賛成した。