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|著作=『愚迷発心集』
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'''貞慶'''(じょうけい、[[久寿]]2年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]([[1155年]][[6月22日]])- [[建暦]]3年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1213年]][[2月24日]]))は、[[鎌倉時代]]前期[[京都]]に生まれた[[法相宗]]の[[僧]]である。 祖父は藤原南家の藤原通憲([[信西]])、父は[[藤原貞憲]]。号は解脱房。勅謚号は'''解脱上人'''。笠置寺上人とよばれた。
 
== 経歴 ==
 
[[興福寺]]に入り叔父[[覚憲]]に師事して[[法相]]・[[律]]を学んだ。[[1182年]]([[寿永]]元年)維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・[[季御読経]]などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って[[1193年]]([[建久]]4年)、以前から[[弥勒]][[信仰]]を媒介として信仰を寄せていた[[笠置寺]]に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰をいっそう深めていった。[[1205年]]([[元久]]2年)には『[[興福寺奏状]]』を起草し、[[法然]]の[[専修念仏]]を批判し、その停止を求めた。[[1208年]]([[承元]]2年)[[海住山寺]]に移り[[観音]]信仰にも関心を寄せた。
祖父信西は[[保元の乱]](1156)の功により一時権勢を得たが、[[平治の乱]](1159)では自害させられ、また父藤原貞憲も 配流された<ref>『尊卑分脈』</ref>。
生家が没落した幼い貞慶は望まずして出家することとなり、
[[興福寺]]に入り叔父[[覚憲]]に師事して[[法相]]・[[律]]を学んだ。
 
 
[[興福寺]]に入り叔父[[覚憲]]に師事して[[法相]]・[[律]]を学んだ。[[1182年]]([[寿永]]元年)維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・[[季御読経]]などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って[[1193年]]([[建久]]4年)、以前から[[弥勒]][[信仰]]を媒介として信仰を寄せていた[[笠置寺]]に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰をいっそう深めていった。[[1205年]]([[元久]]2年)には『[[興福寺奏状]]』を起草し、[[法然]]の[[専修念仏]]を批判し、その停止を求めた。[[1208年]]([[承元]]2年)[[海住山寺]]に移り[[観音]]信仰にも関心を寄せた。
 
 
== 主著 ==
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* [[多川俊映]] 『貞慶「愚迷発心集」を読む 心の闇を見つめる』([[春秋社]] 2004年)、著者は興福寺[[門主|貫首]](管長)
*『愚迷発心集 附愚迷発心集直談』 高瀬承厳校註、[[岩波文庫]]、初版1934年-度々復刊、書き下しのみ。
 
==注釈==
<references/>
 
== 関連項目 ==
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* [[鎌倉文化]]
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[[Category:法相宗]]