「チャールズ・ストーン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎参考文献: {{Normdaten|VIAF=49527037|LCCN=nr/93/052370}}
F.V.E (会話 | 投稿記録)
82行目:
== 戦後の経歴 ==
[[1865年]]に南北戦争が終わると、ストーンはバージニア州のドーバー鉱山会社で技師として、後には最高責任者として[[1869年]]まで務めた<ref>Heidler, p. 1867; Eicher, ''Civil War High Commands'', p. 514.</ref>。翌年、[[アメリカ陸軍総司令官]]になっていた[[ウィリアム・シャーマン]]がストーンをエジプト軍での任務に推薦した<ref name="Stone's Egyptian service and biography">{{cite web|url=http://egypt.atomicmartinis.com/cpstone.htm|title=Stone's Egyptian service and biography|publisher''egypt.atomicmartinis.com''|accessdate=2009-03-22}}</ref>。ストーンは[[1870年]]から[[1883年]]までエジプト総督の[[イスマーイール・パシャ]]のために参謀長と将軍武官として仕えた。そこに居る間に中将の位に昇進し、[[パシャ|フェリク・パシャ]]の称号を与えられた<ref name=EicherCWHC514>Eicher, ''Civil War High Commands'', p. 514.</ref>。エジプト軍におけるストーンの経歴は次のように記述されている。
{{quotation|ストーンは総督のために良く仕え、一般幕僚を務め、エジプトの領土を拡大し、またエジプト軍人やその子弟を教育する学校を設立した。かれはイスマル総督(およびその後継者で息子の[[タウフィーク]])に仕えること13年間だった。イギリス軍が[[アレクサンドリア]]を[[アレクサンドリア砲撃|爆撃]]し、アラ[[ウラービー革命|エジプト軍の反乱]]を率いたとき、ストーンはその妻や娘達が[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に囚われて居たときでも、タウフィークと共にアレクサンドリアに留まった<ref name="Stone's Egyptian service and biography"/>}}
 
ストーンは後にアメリカ合衆国に戻り、[[1883年]]にフロリダ・シップ・キャナル会社のために技師として働いた<ref name=Heidler1867/>。また自由の女神像台座とコンクリート基礎の建設時には技師長を務めた。ストーンはその除幕式後に倒れニューヨーク市で死んだ。ストーンはウェストポイントのウェストポイント墓地に埋葬されている<ref name=EicherCWHC514/>。