「水間寺」の版間の差分

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位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|23|55.89|N|135|23|8.18|E|scale:20000}}|
山号 = 龍谷山|
院号 = 観音院|
宗派 = [[天台宗]]|
寺格 = 別格本山|
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文化財 = 三重塔・行基堂ほか(市文化財)|
}}
'''水間寺'''(みずまでら)は、[[大阪府]][[貝塚市]]にある[[天台宗]]別格本山の[[寺院|寺]]。[[山号]]を龍谷山と'''水間観音'''の通し、で知られる。[[本尊]]は[[聖観世音菩薩]]。'''水間観音'''とも称される
 
== 札所 ==
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== 歴史 ==
寺伝によれば、[[天平]]年間([[729年]]-[[749年]])に[[聖武天皇]]の勅願により[[行基]]が開創したものという。中世には貴賎病床信仰[[聖武天皇]]の夢に現れた[[観音菩薩]]め、[[江戸時代行基]]にはが2つの川が合流する「[[岸和田藩水間]]」にやってくると観音の化身である16人の[[岡部氏 (藤原南家)童子]] の帰依に遭遇、誘われて滝に向かうと竜神が現れ聖観音像、寺運は隆盛しられと伝わっているその滝は、現在のの裏を流れる小川にあったらしく、現在江戸時代後期([[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年)岸辺再建設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現滝」と墨かかれたボードが設置されている。
 
中世より武家による手厚い保護を受けていたが、[[紀州征伐]]の際に紀州勢に与したため、[[1585年]]([[天正]]13年)に[[堀秀政]]の軍勢に攻められて焼失した。一時衰退したものの、[[元禄]]年間には[[岸和田藩]]主[[岡部氏 (藤原南家)|岡部氏]] の帰依を受け、堂宇も再建された。その後、[[1784年]]([[天明]]4年)の火災で再び焼失。[[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年)に本堂が再建され、[[1827年]]([[文政]]10年)には他の堂宇も再建された。
[[江戸時代]]には[[岸和田藩]]主の手厚い保護で栄えた寺で、[[1925年]]([[大正]]14年)に参拝客を運ぶために「[[水間鉄道]]」が開通した。
 
[[井原西鶴]]の『[[日本永代蔵]]』の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになった。[[1925年]]([[大正]]14年)には参拝客を運ぶための[[水間鉄道]]が開通している。
病床の[[聖武天皇]]の夢に現れた[[観音菩薩]]を求め、[[行基]]が2つの川が合流する「[[水間]]」にやってくると観音の化身である16人の[[童子]]に遭遇、誘われて滝に向かうと竜神が現れ聖観音像を授けられたと伝わっている。その滝は、現在の本堂の裏を流れる小川にあったらしく、現在は岸辺に設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現の滝」と墨でかかれたボードが設置されている。
 
== 文化財 ==