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'''窪田精'''(くぼた せい、1921年4月15日-2004年2月29日)は、[[小説家]]である。[[山梨県]]北巨摩郡[[高根町]]に生まれた。
高等小学校修了間際に上京し、夜学に通いながら、大衆演劇の世界にはいる。そのなかで、社会の矛盾にめざめ、[[傾向映画]]作品の舞台化をめざす劇団わかもの座に参加する。1940年、演劇活動のなかで右翼の襲撃をうけ、そのトラブルのなかで[[治安警察法]]違反に問われて、下獄した。戦時中は南洋群島の[[トラック島]]に送られ、流刑囚の生活を送った。
戦後出獄したあと文学の道を選ぶ。清瀬市にあった国立療養所に勤務するなかで、新日本文学会の下部のサークルを、小沢清たちとつくる。1949年、[[新日本文学会]]に入会する。その後、新日本文学会の北多摩班に加わり、[[霜多正次]]・[[西野辰吉]]たちと知り合う。1952年、霜多や西野のほか、[[金達寿]]らとともに同人誌『文学芸術』を創刊、創刊号に米軍基地の労働実態を描いた「フィンカム」を発表し、注目を集める。1956年には、「ある党員の告白」を発表し、戦後の[[日本共産党]]の暗部を描いた作品として、ジャーナリズムの寵児になりかかった。しかし、そうした暴露的な作品に対して反省し、人々の生活の実態と、社会の矛盾にたいするたたかいを描く作品を書こうと志した。そして、「現実変革をめざすリアリズム文学」をめざして、1957年に霜多・西野・金たちと[[リアリズム]]研究会を結成した。1961年には、川崎の[[日本鋼管]]の社外工のたたかいに材をとった長編「海と起重機」を発表し、長編作家としての力量を明らかにし、その後もいくつもの長編小説を書いた。1965年、[[日本民主主義文学会|日本民主主義文学同盟]]の結成に参加し、最初の事務局長を勤めた。その後、1971年には副議長、1983年には霜多の辞任のあと第3代の議長に就任し、1999年まで在任した。この間、1978年には北海道の開拓農民を描いた「海霧のある原野」で、1992年には自伝的な三部作、「夜明けの時」「鉄格子の彼方で」「流人島にて」で[[多喜二・百合子賞]]を受賞した。綿密な取材に基づく作風は、ときには作中人物を饒舌にしすぎる傾向もあったが、戦後日本のさまざまな社会事象を取り上げている。[[航空自衛隊]]のまちを描いた「スクランブル」(1964年)、過疎地での医療運動を扱った「石楠花村日記」(1972年)、クレジットデパートに取材した「白い歩道橋」(1974年)、自動車工場を舞台にした「工場のなかの橋」(1982年)などが、社会の現実と矛盾とに鋭く切りこんだ作品である。また、資料にもとづいて詳細に書かれた回想「文学運動のなかで」(1978年、ISBN 4875380372)は、戦後の[[民主主義文学]]運動の歴史として、貴重な証言となっている。
 
[[Category:日本の小説家|くほたせい]]