「ザ・ピーナッツ」の版間の差分

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この時、渡辺プロの主要[[タレント]]がほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて[[大阪市|大阪]]・[[京都市|京都]]・[[名古屋市|名古屋]]でも行われていた。なお同公演を最後に[[芸能界]]を引退した。<ref>その後同年[[4月13日]]の「さようならザ・ピーナッツ」、また同年[[5月25日]]に「最後の最後のザ・ピーナッツ」が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されたが「さよなら公演」等のVTRを主としたものであり、ザ・ピーナッツは直接出演はしていない。</ref>以後は現在に至るまで一切公の場には姿を現していない<ref>例外として1975年6月4日の[[比叡山延暦寺]]に於ける結婚式では一部メディアで報道されていた(1987年1月の離婚時は不明)。</ref>。
 
姉の伊藤エミは1975年[[6月4日]]に同じ所属事務所であった元・[[ザ・タイガース]]の[[沢田研二]]と[[結婚]]し、[[ハナ肇]]宅の隣に居を構えていた。その後1男を[[出産]]する。しかしが、[[1987年]][[1月]]に[[離婚]]した。
 
その後[[2005年]][[12月23日]]より[[2006年]][[1月15日]]まで[[東京都]][[千代田区]]にある[[丸ビル]]で[http://www.watanabe50th.jp/ 「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」]が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、上記のさよなら公演で使用された[[マイクロフォン|マイク]]が伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。
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*クレージーメキシコ大作戦(1968年4月27日、東宝=渡辺プロ)- メキシコショーの歌手
また、2003年の映画『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』でもライブフィルムでワンカット出演している。
 
== 主な記録 ==
*[[NHK紅白歌合戦]]に実の[[兄弟]]・[[姉妹]]として史上初めて出場。また、兄弟・姉妹による16回連続出場という記録も持つ。
 
== 支えた裏方達 ==
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== NHK紅白歌合戦出場歴 ==
*[[NHK紅白歌合戦]]には1959年(第10回)から引退前年の1974年(第25回)まで16回連続で出場。実の[[兄弟]]・[[姉妹]]として史上初めて出場。また、兄弟・姉妹による16回連続出場という記録も持つ。
*1959年(第10回) 情熱の花
*1960年(第11回) 悲しき16才
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== その他 ==
*[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]、[[ザ・ドリフターズ]]とともに最強時代のナベプロを築き上げていた功績が評価されている。<br/>なお、クレージーとの共演は比較的多かったものの、ドリフとの共演はほとんどない。特に[[志村けん]]加入後の後者との共演は[[茶の間]]に出回っている出典に残る範囲では[[1975年]](昭和50年)[[正月]]の[[新春かくし芸大会]]と前述の「さよなら公演」(ただしドリフは会場で出迎えをしたのみ)、[[8時だョ!全員集合]]でのゲスト出演が数回ある程度である(「芸能ビジネスを創った男 〜渡辺プロとその時代〜」と言う書籍の表紙の裏のページに[[1975年]](昭和50年)の新春かくし芸大会の写真が掲載されている)。
*上記のような縁もあってか、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子である[[なべおさみ]]と共に看病に当たっていた。ハナは伊藤姉妹が見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
*ザ・ピーナッツの愛車は[[プリンス自動車工業|プリンス自動車]]<ref>後に[[日産自動車]]に吸収合併され現在会社は存在しないが、現在も日産販売店系列の名称に「日産プリンス」という形で名称が残っている。</ref>の桃(ピンク)色の車([[プリンス・グロリア|プリンス・グロリアデラックス]])であった。
*同じ双子の歌手であった[[こまどり姉妹]]とはデビューした年も同一であったこともあり、公私共に交流があった。