「イルダ・ド・リュクサンブール」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
HRoestBot (会話 | 投稿記録)
m r2.6.5) (ロボットによる 変更: en:Princess Hilda of Luxembourg (1897–1979)
編集の要約なし
4行目:
[[ルクセンブルク]]大公[[ギヨーム4世 (ルクセンブルク大公)|ギヨーム4世]]とその妻でポルトガルの廃王[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]の娘である[[マリー=アンヌ・ド・ポルテュガル|マリア・アンナ]]の間に生まれた<ref name=thePeerage>{{cite web | url=http://thepeerage.com/p10574.htm#i105740| title=Hilda von Nassau-Weilburg, Princesse de Luxembourg | date=26 October 2008 | accessdate=2008-12-25 | publisher=[http://thePeerage.com thePeerage.com] | author=Darryl Lundy}}</ref>。6人姉妹のうちの三女で、2人の姉[[マリー=アデライド (ルクセンブルク大公)|マリー=アデライード]]と[[シャルロット (ルクセンブルク大公)|シャルロット]]は、ルクセンブルク大公位を継承した。1930年10月29日にベルク城において、[[ボヘミア]]の大貴族である兄系[[シュヴァルツェンベルク家|シュヴァルツェンベルク]]侯家家長[[アドルフ・ツー・シュヴァルツェンベルク|アドルフ]]と結婚した。侯爵夫妻は[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)]]の野心に反対しており、1939年に[[ナチ党]]政府が[[チェコスロバキア併合]]を実施すると[[イタリア]]に避難し、1940年には[[アメリカ合衆国]]に亡命した。
 
[[第2次世界大戦]]終結後、1945年の[[ベネシュ布告]]では対独協力者ではないため所領没収の免れたが、1947年に議会を通過した「[[シュヴァルツェンベルク法]]([[:de:Lex Schwarzenberg|Lex Schwarzenberg]])」により、強引に[[チェコスロバキア]]領内の所領を没収された。こうし事情により戦後はやむなく[[オーストリア]]の所領に身を落ちつけた。侯爵夫妻の間に子供は無く、家督を引き継いだ夫の従弟ヨーゼフ(1900年 - 1979年)は独身だたちにも男子が無かったのでため、兄系シュヴァルツェンベルク家は1979年に断絶した。ヨーゼフ兄系と養子縁組した弟系シュヴァルツェンベルク侯家家長[[カレル・シュヴァルツェンベルク|カール]]が兄系の家督も引き継いだ。
 
== 参考文献 ==