「加藤忠広」の版間の差分

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2008年4月以降に出典が提示されたので、「出典の明記」を別のものに変更したほうがいいのでしょうか
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その後、[[出羽丸岡藩|出羽丸岡]]に1代限り1万石の所領を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正應院母)も呼び寄せて丸岡で22年間を過ごした。丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見える。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を「塵躰和歌集」に編んでいる。
 
[[徳川義宣]]の研究によれば、「[[小倉百人一首]]」で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、「[[伊勢物語]]」にも大きく影響を受け、東国へ下った[[原業平|業平]]をわが身に比べ感慨にふけった様子が伺え、同様に[[光源氏]]にわが身を映したものか「[[源氏物語]]」の引用も多く見られるようである{{要出典|date=2012年4月}}。[[尺八]]など楽器に親しむ歌もある。表には何でも言うがままに働く気心知れた小姓たちがおり。奥では母や乳母、祖母、愛妾、侍女たちの尽きせぬたくさんの愛情に包まれて歌を詠み、源氏を読み、楽器を演奏し、花鳥風月を愛でて美酒に酔う、華やいだ生活が見えてくる。
 
20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正應院の遺骸と一緒に本住寺(現・[[山形県]][[鶴岡市]])に葬られ、墓も仲良く並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった{{要出典範囲|date=2012年4月|(のちに乱心したとも)}}。家臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は[[幕末]]まで庄内藩に仕えたという。