「フランティシェク・パラツキー」の版間の差分

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==生涯==
ホドスラヴィチェ([[:cs:Hodslavice|Hodslavice]])の学校教師の家に生まれ、[[1812年]]から[[ブラチスラヴァ|プレスブルク]]に送られ最初の教育を受ける。[[1823年]]から[[プラハ]]に定住し、そこで[[ヨセフ・ドブロフスキー]]と出会い、親交を深める。プラハに設立されていた民俗博物館の機関誌『国立民族博物館 Časopis Národního muzea』を[[1827年]]から発刊することになり、「ボヘミア民族を死からよみがえらせる」試みとした<ref>{{Cite book|和書|author=G. P.グーチ|year=1960|title=近代史学史|publisher=吉川弘文館|pages=P.185}}</ref>。[[1831年]]に文化団体「Matice česká」を設立。その頃からボヘミアのあちこちにある城館の文庫を利用して主著となる『ボヘミア史 Geschichte von Böhmen』を書き始める。
 
[[1848年]]の2月革命に応じてプラハで開かれた[[汎スラヴ主義#第一回汎スラヴ会議(1848年)|スラヴ民族会議]]では議長を務め、ウィーンの立憲議会に選出される。4月には[[フランクフルト国民議会]]の準備議会にもオーストリア代表として選ばれたが、「フランクフルト議会は一度もドイツに所属したことがないチェコ人をドイツ圏内に引き入れるのを目的としている」と指摘し、招聘を辞退した<ref>{{Cite book|和書|author=L.ネイミア|year=1998|title=1948年革命|publisher=平凡社|pages=P.161-162}}</ref>。一方5月にオーストリアの文部大臣の職に就くよう要請されたが、ドイツ系住民の反発を考慮してこれも辞退している。政治家としてのパラツキーはすでに知名度が高くその去就は注目を集めていたので、スラヴ人とドイツ人の間でバランスをとらねばならなかったのだ。革命の勢いはさらに強まり5月末にはプラハで臨時政府評議会が設立され、パラツキーも参加する。ここでのパラツキーの役割は[[汎スラヴ主義]]の過激派をおさえることにあり、オーストリアを盟主とした連合国家を志向し、その国家のための憲法草案まで起草したが、6月12日に起きた非武装の急進派によるデモをきっかけとしてオーストリア当局の干渉を招き、チェコの立憲運動は中断された。その後もパラツキーは自分の影響力をチェコ文化の確立のために捧げ、終身貴族とされる。
 
==歴史哲学==