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[[Image:Angelo Bronzino 036.jpg|right|180px|コジモ1世]]
'''コジモ1世'''(Cosimo I de' Medici, [[1519年]][[6月11日]] - [[1574年]][[4月21日]])は初代[[トスカーナ大公国|トスカーナ]][[トスカーナの支配者一覧|大公]]で、[[フィレンツェ]]の名門[[メディチ家]]の1人。
 
メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」[[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ|ジョヴァンニ]]([[1498年|1498]]-[[1526年]])と妻[[マリア・サルヴィアティ|マリーア]]の子。ルネサンス期の[[女傑]]として知られる[[カテリーナ・スフォルツァ]]の孫に当たる。[[1537年]]、[[フィレンツェ公国|フィレンツェ]][[トスカーナの支配者一覧|公]][[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]([[ローマ教皇]][[クレメンス7世]]の庶子)が[[暗殺]]された後、18歳のコジモがフィレンツェ公を継ぐ。[[ハプスブルク家]]の支援のもと、フィレンツェの中央集権体制を確立した。[[イタリア戦争]]に参戦しスペイン側に付いて[[1555年]]には[[シエーナ|シエナ]]を併合し、[[1559年]]に[[カトー・カンブレジ条約]]でシエナ公の地位を獲得する。さらに[[海軍]]を創設し、この海軍は[[1571年]]の[[レパントの海戦]]にも参戦している。しかしスペインの警戒もあり、完全には公国は自立できなかった。コジモ1世の最大の功績は、首都フィレンツェの[[都市改造事業]]であり、現在の[[ウフィツィ美術館]]や、[[ヴァザーリの回廊]]などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げるのである。
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晩年は半身不随となり、また再婚するが家庭的に恵まれなかった。トスカーナ大公は子のフランチェスコが継ぐ。
 
{{先代次代|[[トスカーナ大公国|トスカーナ]][[トスカーナの支配者一覧|トスカーナ大公]]|1537- 1574|[[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]](フィレンツェ公)|[[フランチェスコ1世・デ・メディチ]]}}
== 関連項目 ==
*[[メディチ家]]
*[[フィレンツェ]]
*[[コスモーポリ]]
 
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[[Category:トスカーナ大公]]
[[Category:メディチ家]]
[[Category:イタリア戦争の人物]]
[[Category:ルネサンス]]
[[Category:1519年生]]