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[[1785年]]には鉄橋を考案し、翌年には模型を完成させている。一方で同年、『[[政府・銀行・紙幣]]』を著して、銀行を擁護した。[[1787年]]5月からフランスに渡って学士院に自分の橋梁模型を宣伝し、9月から故郷のセットフォードで過ごし『ルビコン川における将来の予想』という小冊子を完成させ、イギリス首相[[ウィリアム・ピット]]に対仏戦の非を説いている。1787年12月から[[1789年]]秋まで[[パリ]]にいたアメリカ公使[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]]と文通し、その年の暮れに[[ラファイエット]]公爵から陥落していたバスティーユ牢獄の鍵を手渡され、ワシントン大統領に届けるよう依頼され、この任を果たす。
 
[[エドマンド・バーク]]の『[[フランス革命についての省察]]』を反駁するため、[[1791年]]と翌年にかけて'''『[[人間の権利]]』'''(''Rights of Man'')を出版し、[[1793年]]までイギリスで200万部を売りつくしたと試算される。『人間の権利』第2部で土地貴族を攻撃し世襲君主制への敵意を表明したためイギリス政府に追放され、かつ自著の仏訳を監修するためにパリに渡り、1791年10月にはフランスの市民権を与えられ国民公会によって新憲法の草案作成委員会に加えられた。その時の委員の顔ぶれには、[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]や[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|シェイエース]]、[[コンドルセ]]が見られ、憲法草案の前文はペインとコンドルセが書いたといわれる。1793年[[1月15日]]に国民公会で[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の処刑に反対する演説を行う。[[12月28日]]に[[ジロンド党]]との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、駐フランス公使[[ジェームズ・モンロー]]の助力により翌年[[11月4日]]に釈放された。12月8日に再び国民公会に迎えられ、翌年[[1月3日]]にフランス公教育委員会により「この哲学者は人間の権利でもってイギリスの政治家のマキャベリズムに立ち向かったのであり、2冊の不滅の著書によって新旧両大陸の自由を聖別した」と顕彰された。この間、[[理神論]]を主張した著書'''『理性の時代 The age of reason』'''を完成させている。[[1802年]]に再びアメリカに渡り、[[ジョン・アダムズ]]をはじめとする[[連邦党]]と対立し、奴隷反対を説き、理神論を改めようとしなかったために、アメリカではほとんどの友人を失い、不遇のうちに[[ニューヨーク]]で没する。彼の遺体は無神論者との噂がたたって教会での埋葬を拒まれて、ロングアイランドの共同墓地に埋められた。[[1819年]]になって、イギリスのジャーナリストで愛国者の[[ウィリアム・コベット]]が故国に改葬しようとしてペインの遺骨を持ち帰り、結局はイギリスでも埋葬が許されず、コベットの生きている間はその家に置かれたまま、彼の死とともに行方知らずとなったという<ref>{{Cite book|和書|author=寿岳文章|year=1949|title=この英国人|publisher=アテネ文庫|pages=P.44-45}}</ref>。
 
== 脚注 ==