「ネーデルラント」の版間の差分

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ハプスブルク家がオーストリア系・スペイン系に分かれると、ネーデルラントは[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]が支配した。[[宗教改革]]以降、[[プロテスタント]]の勢力が[[カトリック教会|カトリック]]国[[スペイン]]の支配に抵抗し、ネーデルラントの北部7州は[[八十年戦争]]を経て、1648年に[[ヴェストファーレン条約]]によってスペイン・ハプスブルク家の支配から独立した。北部7州は連邦制・共和制([[ネーデルラント連邦共和国]])、フランスの支配([[バタヴィア共和国]]、[[ホラント王国]]、[[フランス第一帝政|フランス帝国]]への併合)を経て、[[オラニエ=ナッサウ家]]を王家とする現在の[[ネーデルラント連合王国|ネーデルラント王国]](オランダ)に到る。
 
一方の[[南ネーデルラント]]は、スペイン・ハプスブルク家の支配下に留まる(スペイン領ネーデルラント)ものの、[[フランス王国]]との係争地となり、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)も巻き込んで[[ネーデルラント継承戦争]]が起こされた。[[スペイン継承戦争]]後は、[[ハプスブルク君主国|オーストリア・ハプスブルク家]]領(1713年 - 1793年)となるが、[[フランス革命戦争]]後に[[フランス第一共和制|フランス]]が併合した。[[1815年]]の[[ウィーン議定書|ウィーン条約]]([[ウィーン会議]])では[[ネーデルラント連合王国]]に編入されるが、[[オランダ人]]の支配を嫌い、[[1830年]]に[[革命]]が起こり、翌年、[[イギリス]]などの承認により[[ドイツ]][[貴族]][[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王とする立憲君主国・[[ベルギー王国]]が成立した。ネーデルラント王国(オランダ)は[[1839年]]にベルギーの独立を承認した。1890年には[[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]がネーデルラント王国との同君連合を解消して独立した。
 
{{Seealso|ルクセンブルク}}