「ハクチカラ」の版間の差分

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ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた[[騎手]]・[[保田隆芳]]は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。
 
ハクチカラがアメリカ競馬に姿を現したのは[[7月2日]]のアローワンス[[競馬の競走|競走]]。しかしこの初戦は最下位9着、2戦目も最下位9着に敗れた。ようやく3戦目のサンセットハンデキャップで6頭立ての4着(このときの1着は[[ギャラントマン]]である)になるも4戦目、5戦目と着外<ref>日本では6着以下、日本国外では4着以下などを指すが、この項では前者で扱う。</ref>に敗れ最初の2か月間はまったくの不振であった。しばらくの休養後12月に復帰。それまで騎乗していた保田が帰国し、騎手が[[エディ・アーキャロ]]に変わった6戦目、トーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着<ref>着外の[[対義語]]で、この項では5着以上で扱う。</ref>を続けた。そして11戦目、レイモンド・ヨーク騎手([[:en:Raymond York|Raymond York]])が騎乗したワシントンバースデハンデキャップ(現在のサンルイスオビスポハンデキャップ、[[:en:San Luis Obispo Handicap|San Luis Obispo Handicap]])で歴史的瞬間を迎えた。このとき11.5キログラムもの[[負担重量|斤量]]差や、相手に故障のアクシデントがあったとはいえ、当時の世界賞金記録を持っていた[[ラウンドテーブル]]を破ってのものであり、日本の[[新聞社]]は写真入りの記事でハクチカラの勝利を伝えた。このとき[[アルゼンチン]]<!-- 生まれはアルゼンチンであるが遠征なのか移籍しての出走だったのか判明しません。-->のアニサド以下14頭も同時に破っている。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績は17戦1勝。このあと、日本生産馬としては[[2002年]]の[[サンデーブレイク]]、日本調教馬としては[[2005年]]の[[シーザリオ]]まで<ref>日本で調教を受けたことがある馬としては、フェスティバルが[[2004年]]のG3ダリアハンデキャップを制している。</ref>、アメリカの重賞を勝つことはなかった<ref>ステークス競走では[[1983年]]にマウイズシルシャークがフェアディレクターズカップステークスを、[[1986年]]にマウイリィフォージェイがリッチモンドハンデキャップを優勝している。この2頭は兄弟でともに日本で生まれ、アメリカで[[調教]]を受けていた。</ref>。
 
なお、アメリカでの騎乗ではよいところのなかった保田であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎えることになった。それは当地の最新の騎乗技術、すなわち[[モンキー乗り]]を習得したことであり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は[[天神乗り]]が主流であった中央競馬の[[リーディングジョッキー]]争いをたちまち席巻した。