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[[画像:Pair of CIDG soldiers, 1965.jpg|thumb|250px|CIDG隊員。]]
'''民間不正規戦グループ'''({{Lang-en|Civilian Irregular Defense Group program, '''CIDG'''}})は、[[ベトナム戦争]]期において、[[アメリカ合衆国]]の[[不正規戦争|不正規戦]]戦略に基づいて編成された[[アウクシリア|補助兵]]部隊。部隊の編成・訓練は、[[中央情報局]](CIA)の支援のもとで[[アメリカ陸軍特殊部隊群]]によって行なわれ、隊員は[[ベトナム]]中部山岳地帯に住む少数民族[[:en:Degar|モンタニヤール]](モンタニヤード)より募集された。
 
== 概要 ==
[[ベトナム]]は、[[キン族]](京族)が人口の9割を超えるが、[[タイ・グエン|中部高原]]地方の山間部や高原地帯には[[ジャライ族]](''[[w:Jarai|Jarai]]'')、エデ族(''[[w:E De people|E De]]'')など少数民族が多く暮らしている。しかし[[第一次インドシナ戦争]]後、近代化を推し進める[[ベトナム共和国]](南ベトナム)では、国内の少数民族に対し[[同化政策]]を推進していた。これに対して少数民族は反発し、これら民族出身の[[軍人]]や役人など有力者が自治権を要求していた。
CIDG計画は、[[1961年]][[11月]]より[[ブオンエナオ]]において着手された。アメリカ陸軍特殊部隊員たちは、訓練の他にもモンタニヤールと共に生活しながら[[医療]]活動などを通じて信頼関係を築き、その結果、CIDG計画は成功を収めた。[[1963年]]の終わり頃には、米軍特殊部隊に忠誠を誓う18000名のCIDG攻撃隊員が120個中隊で編制され、グリーンベレーによる指揮のもと、国境周辺のパトロールや監視を行った。最大で、80もの前線基地で40000人のCIDG隊員が[[ベトナム人民軍|北ベトナム軍]]や[[南ベトナム解放民族戦線]]と戦闘を繰り広げた。なお、当初アメリカ軍は、CIDG部隊を南ベトナム軍(ARVN)の指揮下に置くつもりであったが、彼らのような山岳少数民族は差別を受けるため、トラブルが絶えなかったという。そのため、CIDG部隊はベトナム戦争が終結するまで、米軍の指揮下で活動した。
 
時の[[ゴ・ディン・ジエム]]政権はこれを認めず、さらに[[戦略村]]への移住を強いた。このことから、[[1950年代]]後半には政府と少数民族との間で武力衝突が頻発。[[1959年]]1月、コー族が武装蜂起し、政府は鎮圧に二個師団を派兵、高原地帯を経済封鎖し塩の供給を止め、200村落が焼き払われ一万世帯が住居を失った<ref>Dasse, Martial (1976) Montagnards Revoltes et Guerres Revolutionnaires en Asie du Sud-Est Continentale</ref>。[[1960年]]12月にはジャライ族が蜂起すると、またも厳しい弾圧が行われ、[[1962年]]には中部高原の70万人のうち15万人が住居を追われた<ref>バーナード・B・フォール「二つのベトナム」p365,毎日新聞社</ref>。[[南ベトナム解放民族戦線]]は少数民族自治区の設置を主張して、ジエム政権を非難した。こうした強制疎開は少数民族を以前より容易に南ベトナム解放民族戦線に参加させるようになった<ref>ニューヨークタイムズ編「ベトナム秘密報告」p78,サイマル出版</ref>。
 
これに対し、当時南ベトナムの同盟国として多大な軍事援助を行なっていた[[アメリカ合衆国]]は、この動きに危機感を抱き、[[反共主義]]による少数民族の結束を志向しはじめた。これに基づいて計画されたのがCIDG計画であり、[[1961年]][[11月]]より[[ブオンエナオ]]において着手された。アメリカ陸軍特殊部隊員たちは、訓練の他にもモンタニヤールと共に生活しながら[[医療]]活動などを通じて信頼関係を築き、その結果、CIDG計画は成功を収めた。[[1963年]]の終わり頃には、米軍特殊部隊に忠誠を誓う18000名のCIDG攻撃隊員が120個中隊で編制され、グリーンベレーによる指揮のもと、国境周辺のパトロールや監視を行った。最大で、80もの前線基地で40000人のCIDG隊員が[[ベトナム人民軍|北ベトナム軍]]や[[南ベトナム解放民族戦線]]と戦闘を繰り広げた。なお、当初アメリカ軍は、CIDG部隊を南ベトナム軍(ARVN)の指揮下に置くつもりであったが、彼らのような山岳少数民族は差別を受けるため、トラブルが絶えなかったという。そのため、CIDG部隊はベトナム戦争が終結するまで、米軍の指揮下で活動した。
 
== 編制 ==
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=== MGF ===
MGFは[[1965年]]より設置された部隊であり、アメリカ陸軍特殊部隊群の長距離偵察作戦の支援を主任務として、その基地の防衛および作戦支援に当たっていた。その部隊編制は、基本的にはMSFのものに準じていたものの、このように防勢的に運用されて上の違たことからを反映して、[[対戦車ロケット弾]]発射筒や迫撃砲を持たないなどやや軽装備である一方、通信装備はやや充実していた。
 
== CIDG計画の終焉 ==
[[ニクソン・ドクトリン]]に基づく[[ベトナミゼーション]]を反映して、CIDG計画は1970年に終了し、その部隊は、順次にARVNの[[レンジャー]]部隊として転換されていった。しかし少数民族を主体としたCIDG隊員とキン族主体のARVNとの間の感情的な隔たりは大きく、ARVN隷下で活動することを肯んじない隊員も多かった。1964年ごろより、既にこれらの隊員を主体とした反政府武装組織として、[[カンボジア]]の影響下に[[フルロ]](FULRO)が結成されており、CIDG計画終了後、さらに多くの隊員がフルロに流入した。
 
フルロは[[サイゴン陥落]]後も、統一されたベトナム政府に対して武装闘争を継続していたが、次第に劣勢となっていき、カンボジア領の[[熱帯雨林|ジャングル]]に拠点を移すことになる。そして[[カンボジア内戦]]の終結プロセスの一環として、[[1992年]][[10月10日]]、[[国際連合カンボジア暫定統治機構]](UNTAC)に武器を引き渡して投降し、武装闘争を終結させた。
 
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
* {{Cite web|author=Joe Trevithick|year=2009|month=3|url=http://orbat.com/site/toe/trevithick/TOE%20Guide%20-%20Vietnam%20Special%20Units.pdf|title=TOE Guide - Vietnam Special Units|format=PDF|language=英語|accessdate=2012年5月6日}}