「アンドレ・ドラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
A123456 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
A123456 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
7行目:
[[1905年]]には、マティスとともに[[コリウール]]に滞在し制作する。地中海に面した港町コリウールの豊かな色彩は2人の画家の作風に決定的な影響を与えた。この年の秋の[[サロン・ドートンヌ]]で、彼らグループの作品が集められた部屋は批評家ルイ・ヴォークセルによって「野獣の檻」と称せられた。これが野獣派(フォーヴィスム)の名の由来である。
 
1905年末から1906年初めにかけて、[[画商]][[アンブロワーズ・ヴォラール]]の勧めでロンドンに滞在し、テムズ川沿いの風景を描く。1907年からは[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]など「[[洗濯船]]」(バトー・ラヴォワール)の画家たちとも交流するようになる。この頃一時期、キュビズム的な作品を制作する(これがドランの絵を区別するのを困難にしている)が、1908年にそのほとんどを自ら処分。だが、他の[[]]してない。さず、版画などの制作も行う。
 
[[1919年]]に[[バレエ・リュス]]([[セルゲイ・ディアギレフ]]主宰)の「[[風変わりな店]]」の美術と衣装を手掛けたのを最初として、晩年までバレエやオペラの衣装や舞台装飾も手掛けた。また、挿絵、彫刻なども手掛けている。