「第二次モロッコ事件」の版間の差分

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== 妥結 ==
イギリスは積極的にフランスを支持した。[[7月18日]]、イギリスとフランスは軍事協定を締結。[[7月21日]]には、イギリス蔵相[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]が対独強硬演説を行い公然とフランスを支持するなど、事態は全面戦争にまで至るかに見えたが、これと並行して独仏は、[[7月9日]]以降問題解決のため交渉を重ね、[[10月11日]]にモロッコ協定、[[11月3日]]にコンゴ協定がそれぞれ成立した。ドイツはモロッコに対する要求を放棄し、その代償として{{仮リンク|フランス領コンゴ|en|French Congo}}の一部であった{{仮リンク|ノイカメルーン|en|Neukamerun}}を獲得し、{{仮リンク|ドイツ領カメルーン (植民地)|en|Kamerun|label=ドイツ領カメルーン}}の領土を拡大した。
 
[[1912年]][[3月30日]]、フランスはスルタンと[[フェス条約]]を締結。これによりモロッコは、他国の保護に甘んじることとなった。[[セウタ]]や[[メリリャ]]など北部と[[スペイン領サハラ]]に接する南部はスペインの保護領に、残る大部分の国土はフランスの保護領となった。また、[[タンジール]]とその周辺の373平方kmに関しては国際管理都市とされ、列強の勢力均衡が図られた。