「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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=== ライヒスバンク総裁 ===
1923年12月22日にはハーヴェンシュタインの死で空席となっていた[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]総裁に任じられた<ref name="阿部107">阿部、107頁</ref>。シャハトはフランスが賠償金取り立てに軍事力を使った事に反感を持つ[[イングランド銀行]]総裁[[{{仮リンク|モンターギュ・ノーマン]]|en|Montagu Norman, 1st Baron Norman}}と接近した<ref name="阿部108">阿部、108頁</ref>。フランスは引き続きルール地方を占領していたが、これに反発したイギリスはドイツの賠償方法についての専門委員会の創設を求める動きを起こした。アメリカがこれに賛同し、フランスも従わざるを得なくなった。こうしてアメリカの[[チャールズ・ドーズ]]を委員長としてドーズ委員会が創設された<ref name="林117">林、117頁</ref>。シャハトは同委員会との交渉に参加した<ref name="ヴィストリヒ93"/>。同委員会は1924年4月には新しい賠償金支払い方式の[[ドーズ案]]を作成した<ref name="林117"/>。
 
1926年にドイツ民主党の左派寄り・リベラル志向を倦厭するようになり、同党を離党し、右派・保守派と接近するようになった<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。