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'''帝国自由都市'''(ていこくじゆうとし、[[ドイツ語|独]]:Freie Reichsstadt)は、[[中世]]より[[ドイツ]]([[神聖ローマ帝国]])で見られた[[都市]]の一形態。地方[[領主]]や[[司教]]の統制下でなく、[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]直属の地位におかれ、一定範囲における[[自治]]を行使した都市を指す。'''自由帝国都市'''とも表記される。
 
==歴史==
[[画像:Bremen_Roland.jpg|thumb|180px|right|[[ブレーメン]]市庁舎前のローラン像。大司教のドームをにらみ、ブレーメン市民の自由を訴えている。]]
===帝国都市===
当初は、歴代[[ローマ王|ドイツ王]]、皇帝の指示により建設されたり、[[宮廷]]が設けられた都市が帝国都市と称された。その後、中世都市の勃興・発展が進むと、地方領主の統制下におかれることを望まない都市が皇帝に接近し、貢納などと引き替えに特許状を獲得して事実上領主から[[独立]]していった。これらの都市も帝国都市と称される。
 
===自由都市===
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===帝国自由都市===
上記の点で、本来は自由都市と帝国都市は別個の概念であったが、中世後期になって帝国都市が発展していくと、帝国都市に課されていた義務も形骸化して両者の差異はほぼ失われた。このため、両者をあわせて帝国自由都市と称するようになった。帝国自由都市は[[領邦]]と同等の地位にあり、[[帝国議会]]へ代表を派遣することができた。
 
この帝国自由都市の存在は、所領の[[農奴]]が逃亡して労働力が失われるなど、各地の領邦君主にとって望ましくない存在であった。また、領邦君主が自らの権力強化を図るのであれば、都市に蓄積されている富を狙わない手はなかった。16世紀より、[[宗教改革]]の波に乗じて、領邦君主は[[アウクスブルクの宗教和議]]を通じて[[領邦教会体制]]を確立させた。これにより所領内の教会を統制下におき集権化を進め、さらに各都市への統制強化を図った。多くの都市はこうして領邦君主の統制下におかれ、[[自治]]の多くを剥奪された。1648年の[[ヴェストファーレン条約]]で領邦[[主権]]が確認されたことも、この動きを加速させた。
 
さらに、[[ナポレオン戦争]]においてドイツが占領されると、ナポレオン政権下での行政区再編にともなって、[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[リューベック]]の4都市以外は帝国自由都市としての地位を失った。ナポレオンの失脚後に[[ドイツ連邦]]が発足するが、この連邦は35の邦国(発足当初は34)と上記の4帝国自由都市によって構成されていた。この4都市のうち、ブレーメンとハンブルクは、現在の[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]において独立した[[連邦州]]として扱われ、今でもそれぞれ「自由ハンザ都市ブレーメン」「自由ハンザ都市ハンブルク」を正式名称としている。