「西ノ海嘉治郎 (2代)」の版間の差分

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Furuboku (会話 | 投稿記録)
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大関時代の明治45年([[1912年]])1月場所8日目、当時43連勝中だった横綱[[太刀山峯右エ門|太刀山]]を[[叩き込み]]で破った。太刀山はこの後56連勝を記録したので、もし西ノ海が土を付けていなければ100連勝が達成されていたかもしれない。太刀山自身もこの敗戦にはこだわっていたようで、相撲協会を離れて以後の回想には、この敗戦は[[八百長]]だったとほのめかすような発言がある。ただし、この連勝中には休場も含まれている。
 
師匠([[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海]])の後を継いで[[年寄]][[井筒]]を襲名。横綱源氏山改め[[西ノ海嘉治郎 (3代)|3代目西ノ海]]を始め、大関[[豊國福馬]]、関脇[[錦洋与三郎]]、小結[[宮城山正見]]、2代目[[逆鉾盛吉]]、[[一ノ濱善之助]]、[[泉洋藤太郎]]、[[星甲実義|星甲實義]]などを育成し、先代井筒が部屋を興して以来最高の繁栄を築いた。
 
温厚な性格で人望もあり協会取締の要職を務めたが、2度目の任期を途中辞任した直後の[[昭和]]6年([[1931年]])1月27日に[[自殺]]した。役員改選時に地位利用したとの悪評を立てられたのを苦にしたものとされる。